Twitter と「リテラシー」

 Twitterの「140字」制限は、日本語の場合、おそらく英語の3倍くらいの密度の内容を盛り込める間尺になっているような気がする。

 これは、英文を日本語に翻訳したら元の2倍から3倍くらいの分量になる、と言われてきたことの裏返しでもあるような。実感としても確かにそういう印象はある。ざっくり何書いてあるかわかる程度ならまだしも、文脈その他考慮してていねいに翻訳しようとしたら、やはり文章としては増えてしまう。書き言葉というのはそういうものらしい。

 話し言葉の会話を話し言葉で「通訳」する場合は、また別だろう。まして「同時通訳」となるとなおのこと。その場のやりとりの時間的制限の中で、最低限誤解のないように話しことばに「通訳」するというのは、書き言葉を書き言葉にする「翻訳」とは別の能力、ある種の反射神経みたいなものも含めて必要になってくるように思う。

 ただ、Twitterの場合、確かにそれはタイピングなりフリック入力なりを介した書き言葉、ではあるのだけれども、同時にそれは話し言葉的なテンポやノリで発してゆかねばならないところがあるという意味では、「通訳」的なセンスが求められてくる。2ちゃんねる以来の本邦web環境での掲示板文化が良くも悪くも育んできた、そういう「書き言葉でのおしゃべり」的なありようは、単に文字数の多寡だけでなく、TwitterというSNSとのつきあい方を規定してきている大きな要素だろう。

 そして、それらのつきあい方にもすでに「歴史」が介在してきている。キーボードのリテラシーの来歴から、情報環境の変貌に伴う「記録」デバイスの移り変わり、そしてそれらを介してやりとりされてゆく「情報」のありようの変遷と、当然それらに規定されてくるはずの「社会」なり「現実」というイメージの輪郭の動態……以下、例によっての古証文からの抜粋を時系列で並べてみるけれども、「読む・書く」「聞く・話す」の系、「書き言葉」「話し言葉」の系、のそれぞれ複合した中で、さらにそれらweb環境との関係でキーボードやフリック入力といったまた別の系もまた考慮に入れなければならなくなってるのだと思う、こういう「メディア論」(ああ、軽佻浮薄な響きしかなくなったもの言い……) をちゃんと考えようとする場合には。

 ワープロを使ってきた経験から言っても、キーボードでつむぎ出され、電子メディアの中を漂う言葉に「責任」は宿りにくいのでは、という疑いを僕は拭いきれない。つむぎ出す言葉がもたらす効果やその読まれ得る範囲の推測、そしてそのことに対して引き受け得るものかどうかについての内省など、「発言」という行為に本質的に伴ってくるはずのさまざまな「責任」について手もとでコントロールする意志をあらかじめ放棄させるような条件がそこにはらまれているように思えるのだ。


 指先を介してキーボードにポンポンと打ち込まれる言葉は、ディスプレイの上なり紙の上なりで書き手自身を読者とした推敲の過程を重ねて、初めてひとつのテキストとして自分の手もとから手放しても構わないものになり、「私」の領域から「公」の領域へと一歩踏み出す。その一歩踏み出すまでの間には、時間の経緯と共に、言葉を扱う具体的な手作業の連続の中に宿る反省の力もあり得た。紙と鉛筆であれ、キーボードとディスプレイであれ、ひとたび自分で書いた言葉は具体的なかたちを伴いそこに存在し始めた時点から、書いた主体に対する自省を求め始める。「書く」とは、そして「発言」とは、意味の伝達というだけでなく、そのような自省を求めての行為でもあるのだ。
king-biscuit.hatenablog.com

 歴史的に言って、日本人はキーボードによる言葉の入力を学んできませんでした。タイプライターはアルファベットという表音文字によって構成される外国語のための専用機としてだけ使われ、和文タイプも開発されたものの例外的なものでしかなかった。一般の庶民にとってキーボードはまず縁のないものだったわけです。


 それが80年代半ばあたりから、ワープロ専用機がかなり普及するようになった。それは、庶民にとっては主に年末に自分で作った年賀状をきれいに印刷するための道具として普及してゆくわけですが、しかし、それによって若い世代を中心にキーボードで言葉を打ち込む技術が浸透していった。それはパソコンの普及よりもずっと広汎に、先行して起こったことです。そのようなキーボードのリテラシーの浸透が前提となって、その後のパソコンの一気の普及を支えたところがある。その結果、今、少なくとも三十代から下の世代の日本人にとっては、もはやキーボードアレルギーはあまり問題にならなくなっています。彼らの世代にとってはパソコンが仕事に必要とされるようになったということもありますが、一方でそれとはまた別に、私的生活の領域でパソコンをインターネットも含めた通信に利用する側面が大きくなっている。


  つまり、日本の社会において、大衆化されたパソコンというのは事務処理のツールとしてよりも、本質的にキーボードを媒介にした新たなコミュニケーションのツールとしての意義が大きいわけです。キーボードによって「思う」「考える」速度で言葉を叩き出し、文字という形にしてゆく、その国民的経験の広がりは、明治維新このかた、西欧の言語とそれまでの知的伝統との間に複雑に引き裂かれた日本の知識人層にとりついた言葉と現実の乖離の傾向に対して拍車をかけ、しかもそれをより広い層にまで拡散させることになりました。
king-biscuit.hatenablog.com

 手指の働きを末梢的に肥大させるような道具、あらゆる動物の中でも人間に特権的に付与されているようなこの手指を最も効率的に働かせるための「もの」、という意味で、キーボードというのは相当に獰猛で、こちらの身体に対して逆に支配的に対峙してくるような本質をはらんでいるように思います。そう言えば、「デジタル」とカタカナ表記されて日本語化している digital にしても、もともとは「指を使った」という意味があったとか。だとすれば、キーボード=「鍵盤」というデバイスと「デジタル」とは切っても切れない縁があることになります。
king-biscuit.hatenablog.com

 手書きのメモであれ、スマホタブレットなどに指先のフリックで記されるテキストであれ、はたまたキーボード介して打ち込まれる文書であれ、結果として「記録物としての記録」に至るまでの具体的な生身の作業としての「行為としての記録」は少し前までとは比べものにならないくらい多様化している。いや、それだけではない。単に文字だけでなく、いまや画像や動画、音声なども、必要な機材やデバイスさえ手もとのあって操作できるならそのような意味で「記録」する/されることが容易に可能になっているし、結果として「行為としての記録」の敷居も低くなると共に、その結果アウトプットされる「記録物としての記録」もなしくずしにその幅を拡大している。まして、それら全てはデジタイズされた「情報」として存在するようになっているのだから、「記録物」の意味もまた以前とは変わってきていて不思議はない。


 新聞記者にしても、昨今の記者会見などでみんな一様にノートパソコンを拡げ、そこでカタカタとキーボードを鳴らしながら発言内容を打ち込んでいる姿が当たり前になっている。いや、そこでどんな「記録」を作り出しているのか、会見での発言内容そのものなのか、取材メモなのか、あるいはツイッターなどに書き込んでいるのか、もしかしたらゲームでもやっているのか、その姿だけからはわからないのだけれども、少なくとも「現場」で「取材」をする/しているという姿もまた、眼前の相手のしゃべっていることに耳を傾けながら手を動かしてメモをとる、それも場合によってはポケットの中で気づかれないように素早くとってたりするような、少し前までの当たり前とも変わってしまっていることは間違いない。
king-biscuit.hatenadiary.com

 そう言えば、中国の留学生がよく指摘することなのだが、スマホを介したSNSでのやりとりが「音声」を文字化してくれる微博 (weibo) を便利に使うのに慣れると、日本人のLINEの使い方はめんどくさい由。話し言葉で「話す」ことがそのまま書き言葉に「変換」されてゆくサービスに対して、やはりどこか抵抗値みたいなものがわれわれの文化の裡にあるのかも知れない。なるほど、そう言われてみれば、いや、言われてみるまでもなく、音声入力ソフトやアプリの普及は本邦ではかけ声ほどには進んでいないように見えるし、会話の録音をほぼそのまま「起こして」くれるサービス (名前忘れた……)にしても、まだ信頼性が低い、などといったネガティヴな「批判」が先行してしまうところがあるように感じる。このへんも含めて、「ことば」に対するわれら同胞の意外と根深い枠組みについては、もう少しいろいろな方向から考えてみなければならない。