若い衆世代の「優秀」について・雑感

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 いまどき若い衆世代が真面目で礼儀正しくて勉強もよくする、というのはわかるが、ただ、だからと言ってその「勉強」が果たしてどのような達成につながってゆくのか、何より当人がたにとってシアワセになれるものなのか、とかいろいろ躊躇せざるを得ないところも、また。

 たとえば、独自の視点での報告やレポート、論文などアウトプットするという点でも、「無難」な方向でなおかつ言われたこと指導された線に忠実に従ってなぞる的なモードが標準装備だから出てきたものは同工異曲横並びな印象、それでいて競争は思いっきり煽られるんだからそりゃ鬱にもなるわなあ、とか。領域や分野によって事情が異なるのは承知の上で、敢えて。てか、そんな専門的にどうこうの水準はるか以前にフツーの若い衆のふだんの学習なり学校身振りの範囲においてさえも、という感じなのだが。

 発想なり着眼なりにもあらかじめ何か「無難」なり「正解」なりのリミッターが設けられていて、それを踏み越えるようなことはしない/できないのが習い性になっとるような印象。良い意味での雑談なりバズセッションなり要は「おしゃべり」ですら自由闊達にしない/できない窮屈さ。おそらく無自覚らし。自信がないから、間違ったら詰むから、などの説明はそれぞれ当っているのかも知れんが、だからと言って、何らかのはずみでそれらとっぱずせた物件はというと、かの建築コンサル的な思いつきだけで後先文脈考えず口に出し文字にしてしまうような症状になったりするらしいのも、また何というか……生身介した話しことば、「おしゃべり」の範囲でそれら思いつきを互いに参照しながら望ましい方向に制御してゆく、的な稽古が欠落しとるとしか思えん症状。要は適切なツッコミなりコメントなりをされる経験を重ねてゆく「関係」や「場」をくぐらぬまんま、いきなり「社会」や「世界」デビュー的なワヤ。

 もう古市でも落合でも何でもいいが、あれ系いまどきありがちなワヤ物件について「製造者責任」を問うたところで、そういう「関係」や「場」がおそらく構築されてきてなかったのなら、そりゃ「責任」もヘチマもあるわきゃないし、そもそもそんなもん感じる前提が成立しとらんかったんだろうな、と。

 形式的な表面上だけの、生身の主体と紐付いてない、だからこそ「速度」に同調し「処理」も容易な、それこそ「情報」としてのことばやもの言い、専門用語や術語からそれらを駆使して順列組み合わせを瞬時にやってのける「スキル」まで、そういう環境が日常化しとる場所で呼吸はしてきたんだろうが。生身の主体なんかと紐付いてたら「速度」に同調でけんし、「情報」として「処理」も進まんから競争に勝てない、てな方向での理解がそうと意識すらしないですむような自明性と共に、それこそ「正解」として共有されていて〈それ以外〉は初手から存在しないことになっている日常空間、らしいな。

 ことばと生身の紐付き具合を再構築するのに「朗読」って割とひとつ有効なんでないかいな、とは何となく思うとる、経験的にも。リクツその他はあまりわからんからアテにはならんけど。できれば大きな声でゆっくりめに、とか。自分の声を自分で聴いてそこから意味が自分の裡に浸透してゆく過程を確認できる(ような気がする)程度の速度でゆっくりと、てな感じかなあ。反射みたいな速度で意味を一義的に、平面的に「処理」してゆく過程に一時停止かけとく、的な。自分で自分の声を「聴く」ことで、それを一旦「よそごと」にして響かせることで初めて「身にしみる」形に転換してゆける、的な。

 おたく特有の早口、とかもこのへんのからくりとどこかで関係してきとるんだろうとおも、逆の意味で。おたく的「情報」の「処理」の「速度」は、かつてはそれだけで突出して異様なもの、ではあったんだわなあ、と改めて。

*1:懸案のひとつ、ことばと「身にしみる」ことの関係その他にからんで。声に出して「聴く」ことの効果と、身に立ち上がる〈リアル〉との関係について、などまで少しずつ射程が届き始めているような気はするが……さて。