記憶と事実の関係・メモ

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 2年半前99歳で亡くなられた元零戦搭乗員原田要さんは最晩年、80歳代の頃と仰ることが随分違っていた。空戦中「敵搭乗員の顔など見えない」筈が「怯えた顔を見た」になったり、ガ島に不時着した時、火など吹いていなかったのが「火を吹いた」になったり。当事者の回想にも検証は欠かせない所以である。


 一般に、記憶違いとは別に、インタビューや講演の回数が増えるほど話が大きくなり、話を重ねるうち本人の中でもそれが実体験の記憶と置き換わってしまう傾向がある。だから取材慣れして話の上手い人ほど実は書きづらい。これはやむを得ないことだが、当事者の体験を伝え残すことは、想像以上に難しい。


 その意味では、坂井三郎さんは書き辛い人だった。ご本人は極めて率直な方だったと思うが、周囲が脚色し持ち上げ過ぎた。福林正之氏が書いた「坂井三郎空戦記録」、高木肇氏が書いた「大空のサムライ」という偉大な作品の脚色部分を省き、触れられなかった部分に触れるのは気の進まない作業だったから。


 たとえば、坂井三郎さんが「自分の列機を一機も失わなかった」というような伝説めいた脚色があるが、硫黄島では直接の三番機、四番機を失っておられる。『大空のサムライ』の実際の筆者である高木肇さんも、硫黄島以降のことは敢えて曖昧にしたと仰っていた。


 戦後、台南空零戦隊が僚隊の三空を差し置いて脚光を浴びた陰には、台南空から改名した二五一空にかけて在隊し、ルンガ沖航空戦で戦死した大木芳男飛曹長の弟さんが「丸」の編集部にいたことも大きいんだよね。


 原田要さんに戻ると、原田さんも晩年、メディアに都合よく話を作ってしまわれていた。真珠湾作戦の時は母艦の上空直衛で、所謂真珠湾攻撃には参加していないのに、参加したかのように伝えられてしまった。撃墜機数19機も滞空時間8000時間も嘘。しかし一度、一人歩きしてしまった話の修正は難しい。


 原田要さんの撃墜機数は協同不確実を含め14機。飛行時間は約2000時間。晩年ゴーストライターに実に4倍に膨らまされている。2000時間でも当時の戦闘機乗りとしては大ベテランなのだが。昔マーチン・ケイディンが坂井三郎さんの撃墜機数を宮本武蔵の真剣勝負の回数にかけて「64機」としたのに似ている。


 長年お付き合いすれば発言の振れ幅を補正できるが、今、零戦に限らず戦争体験者に初めて会った人が、聞いたことが全部事実だと信じてしまうのは危険。それを具現化したような書籍も現に出ている。一次資料による裏付けは必要だし、中村泰三さんや宮崎賢治さんのような別角度の考察も欠かせないのだ。


 「特攻兵」なんて本来使わない言葉をメディアや作家が簡単に使ってしまうのも変。特攻隊員には「兵」ではない士官も下士官もいて、少し前なら、軍人の総称のつもりでうっかりそんな言葉を使ったら、当事者に必ず注意を受けた。なりたて少尉でも将校。総称なら将兵だし、特攻兵は特攻隊員でなければ。


 どなたとは申し上げないが、高高度飛行の高度記録が、話すたびに高くなっていった人もいる。年齢ゆえの部分はあるし、それはその人の責任ではなく、世に出すなら筆者が裏を取って確認すべきことだ。


 私のインタビュー先は旧海軍とそのご家族ご遺族に偏っていて、零戦関係だけで会った人は300人をくだらないが、例えば陸軍戦闘機隊で直接存じ上げていたのは、加藤隼戦闘隊の安田義人さんとご近所だった荒蒔義次さんぐらい。陸軍には海軍の零戦搭乗員会のような横断的な戦友会がなかったことにもよる。


 零戦の士官だと進藤三郎さんや黒澤丈夫さん、岩下邦雄さん、湯野川守正さんら、叩き上げだと角田和男さんや岩井勉さん、田中國義さん、小町定さん、大原亮治さんらは、何年お付き合いしても、新しい話が出てくることはあっても話が大きくなることは決してなかったから安心感があったなぁ。


 話が大きくなっていく人も聞き手へのサービス精神だったり、耳が遠くドラマにしたい誘導尋問に乗せられたり、色々あるから責める気はなく、発表する側がきちんと検証しないといけない。だがこのことに限らず、世の中には小さな話を大きく言う人と、大きな話を小さく言う人がいるのを忘れてはいけない。

*1:これもまた、例によってのTwitterのTLに流れてきた一連の「野の遺賢」からの断片。