ロスジェネ的被害者意識の悪弊・メモ


 例の「おキモチ原理主義」のやや変形版、でしかないと思うんだが。

 ロスジェネ氷河期世代がワリ喰ったのは総論そうだと思うし、それをリカバリーせにゃ社会全体煮崩れ促進されるだけだと強く感じているが、ただ、だからと言って当事者がこういう被害者意識からもの言うことしかでけんかったら、おキモチ原理主義沼に取り込まれるだけで何の救いにもならんとおも。「生きづらさ」とか、それ系おキモチ原理主義発動トリガーになっとるもの言いをまず自主的に禁句にせにゃあかんだろう、と。

 こういう「被害者」「弱者」モードにならないと「主体」「当事者」にもうまくなれないような不幸と不自由は、いまやあらゆる世代や階層に薄く広く蔓延しているらしい。何かものを言おうとしたり、まわりに働きかけようとしたら必ずと言っていいほどそのような「被害者」「弱者」モードを設定する身振りやもの言いに取り憑かれている、そういう症例はほんとに多いし、また何よりそこから出発するとその先、たどる道行きもまたものの見事に定型化したルーティンになって、そもそも何が問題でどうしたいものだったのかすらわからなくなって、「ああ、ああいうもの申すになるとみんな一緒くた横並びのgdgdになるんだよねえ」的既視感だけがまたひとつ、事例として蓄積されてゆくというお約束の末路まで。

「いちばん働きたかったとき、働くことから遠ざけられた。いちばん結婚したかったとき、異性とつがうことに向けて一歩を踏み出すにはあまりにも傷つき疲れていた。いちばん子どもを産むことに適していたとき、妊娠したら生活が破綻すると怯えた」

思わずそこでページを閉じて、声を上げておいおいと泣きたくなった。それは私が初めて目にした、「過去形で語られた」ロスジェネだった。その描写に、「もう取り返しがつかないことなんだ」と、改めて、取り返しのつかなさを痛感した。

 いきなり泣いてどうする。なんなんだ、こういうこらえ性のなさとそれに対する臆面なさは。

 他人の、それも同性同世代のいまどき学者研究者世間の住人の、これまた見事に自分語りポエムという形式でしか問題意識を表出できない症状に手もなくシンクロ率100%で同調して「号泣」してみせる、ここからしてもう何をか言わんや、「共感」「寄り添い」系ゆるふわ共同体はかくも見事にあっという間におかいこぐるみに現実認識とそれを可能にする眼も耳も生身ごと全部機能しなくしてゆくものらしい。そういう言葉やもの言い、身振りの共同性からしか「自分(たち)」の抱えている問題を提示できなくなっていることの不自由については当然、自覚できないし、同時にそのようなモード自体、反面教師のようにあらぬ悪さを同時代の情報環境の内側で撒き散らしていたりする。

 たとえば、アラフォー界隈でまあいまどきにしてはそれなりに安定した職に就いとらすよう2馬力世帯、そこそこうまくやっている次の世代の中間層予備軍と言ってもいいようなつがいが、いとも簡単かつ一気に意識がトーキョーエリジウム化して、みるみるうちにそれベースの消費モードを平然と実装されてゆくのをご当地でも近年よく見かけるんだが、あれってやっぱこのへんのロスジェネ的被害者意識の話法や身振りを光源としての何かが悪さしての事態なんだろうな、と。

 概ねどっちか一方の、ヘタすりゃ双方の実家が太めか、でなくても後ろ楯期待できるような場合が多いような。今とりあえずそれだけ恵まれているならいまどきマシなわけだから、そこから冷静に〈それから先〉を見通して次の一歩を踏み出すべきなのに、一気に後先考えずに子ども3人も4人もこさえたり、あるいは家族ぐるみで海外旅行をバンバンやったり、とにかく表層の消費モードだけは一気にトーキョーエリジウム基準で流してゆくわけで、そこにはこの先自前でどうするかといった将来設計などはほとんど感じられない。

「今、なんとかすればまだ間に合う。私たちは「人並み」になれる。そんな思いがあって、私たちは多くの「可能性」を手にしていた。今、職業訓練をすれば、正社員として活躍できる人がたくさんいる。結婚、出産を望んでいる人たちができるようになる。私を含め、10年前、論客の多くは「政治」を信じていた気がする。少なくとも、高度経済成長時代に子ども時代を過ごした私は、「まさか自分たちを見捨てることはないだろう」くらいの、この国に対する信頼を持っていた。しかし、この原稿を書いてから今に至るまでの12年で、その信頼は粉々に打ち砕かれた。みんなは12年分、年をとった。そうしてきっと、いろんなことがもう「手遅れ」となり、手にしていたはずの可能性は、気がつけば多くが消えていた。」

 「とりかえしがつかない」という「被害者」「弱者」モードの自明性によるマウンティング話法は、それを見聞きする同時代に不安や焦り、「自分はそうならないようにしなければ」「もしかしたらもうそうなっているかも」「こういう人たちと同じにはなりたくない」といった防禦的な反応をかき立てる。だから、なるべくそのような事態を覆い隠してくれるような方向に自分たちの日常をとりつくろい装うような方向にもってゆく。不安は人を饒舌にするのと同じ意味で、必死に自らの現実を「消費」で装い埋めようとする。

 できる限り他人事にしていたい、そう思いたいがための衒示的(という自覚はなくても)消費の上げ底に問題を先送りしてゆく逃避行動。「何とかする」こととは、果たして具体的にどのような作業を必要とするのか、立ち止まって個々の現実の裡からそれを見つけてゆくために必要なはずの言葉やもの言いは、それら「被害者」「弱者」話法からはまず引き出せないし、それら話法にうっかり身を委ねている側はそんなことまで配慮するはずもない。自分たちと同じような「被害者」「弱者」話法に「共感」し「寄り添う」同類項を吸引してますます閉じてゆくだけのこと。そこから逃れようとする者たちにもまた、不安や焦りのキモチやココロだけを増幅させることで、真に必要な個別具体の現実認識、そしてそこから具体的に役に立つ対処の仕方についての目算などを持たせるような方向に眼をとざして、「被害者」「弱者」の裏返しとしてのかりそめの「勝ち組」身振りへと邁進させるばかりらしい。