それは「物語」ではない

 まあ、あのカドカワだからいまさらびっくりもせんけれども……ただ、「物語」って言葉を自分、頑なに使わんようにしてきとる理由その他、もっときっちり詰めて説明しとかにゃあかんみたいだわなあ。

「物語」は「コンテンツ」に非ず(`・ω・´)
「物語」はブツでも媒体でもない(`・ω・´)
「物語」に「作者」は本質的に不要だったりする(`・ω・´)
「物語」はうっかり宿ってしまうものだったりする(`・ω・´)

 だからそのへん、「物語」と何やら決め打ちもっともらしい確定的な字ヅラを避けて、とりあえずはひらがな表記の「おはなし」くらいに敢えてずっとしてきとるんだが。それは確定的なブツや記録、資料などというよりは、上演とか語りなどを介して、必ず「読み」その他の受容と共にうっかりその「場」に、そしてそれを支える「関係」の裡に宿ってしまう、そういう感じ。

 そういう仮説的補助線を引くことの利点は、まず個々の媒体をブツとして、具体的な存在として「だけ」見てしまうことを留保しておけること。媒体相互の融通無碍な往還や「おはなし」としての開かれた共通項などに気づきやすくなり、「読み」や「読者/受け手」の存在とその営みに合焦しやすくなること。*1

*1:実はこのへん、本質的な現実認識などに刺さってくる問題のはずで、そこらへんからしてまずいわゆる「学問」「研究」の世間との相性のよろしくなさも胚胎してきているんだと自覚はしとる。しとるが、反省はしてないし今後もおそらくしない。そしていつものように「知己は後世に俟つ」。