報道の「客観主義」には「重みを感じない」・メモ

 古書雑誌のやくたいもないものを集めておいては気まぐれにめくってみていると、たまに予期せぬ意味あいで(゚Д゚)ハッとさせられることがある。

 「ニュースには答がないのが普通だが、答の出しやすいように方程式を立てるのがジャーナリズムだろう。しかし、報道機械の発達は事実の断片を拾い集めることによって、その事実の意味からは遠ざかってゆくのである。」

 うっかり読み過ごしてしまうかも知れない、文章としてはそんなもの。別段眼につくような奇矯なもの言いもしていないし、文法話法としても特に難解なものでもない。文字通りに読めばいいようなものだが、しかし、〈いま・ここ〉を生きる今のわれわれの「あたりまえ」を前提にうっかり突き合わせながら読むようにした瞬間から、そこに書かれている文字列の内容について二度見三度見しなければ「わかる」に落とし込んでゆけないことを思い知ることになる。*1

 ニュースには「答がない」、でもジャーナリズムは「答の出しやすいように方程式を立てる」。誰にとって答を出しやすいようにするのかというと、それはまず視聴者であり、そして彼らに代表される世間一般その他おおぜいの最大公約数としての、たとえば「国民」「市民」といった言い方でくくられるような存在だろう。それらに向かって個々の「事実」だけを報じるのではなく、それらの「事実」を素材として使って「方程式」を立てるのがジャーナリズムなのだ、と、どうやらこう言っているのだ。

 だが、それに続けてこうも言う。昨今さまざまな技術の発達とそれによる機器の進歩で、同じ報道現場でも「事実」(の断片)を拾い集めることは以前よりラクにできるようになっている。それはそれで現在の状況なのだが、そのように「事実」を拾い集めるという作業の過程が便利に、効率的になったことで、そうやって拾い集められた「事実」の意味からはかえって遠ざかっている、とも言う。どういうことか。敢えてほどいてみるならば、個々の「事実」が報道の素材なのは確かだけれども、ジャーナリズムとして報道すべき事実とはそのような個々の断片というだけではなく、そこから先、何らかの文脈があってその上で適切に配置された統合的な、それら文脈との関係において初めて意味を持つようなそういう「事実」である――どうやらそんな意味らしいのだ。

 「ニュース原稿を読むアナウンサーの淡々たる態度は、実は事実を大事にしているのではなく、なるべく数多く並べようする手品のように見える。(…) NHKのニュースは無菌の蒸留水みたいなものだ。かつては必ずしも無菌状態ではなかった。」

*2

 この「淡々たる態度」とは、昨今世間一般その他大勢のある部分が確実に要求し始めている「客観的」で「中立的」で「淡々と事実だけを報じてくれる」そんなあるべきマスコミ、マスメディアの基本的態度と地続きのように見える。テレビの場合、ニュースがバラエティ・ショウ化してゆく過程で、それまでのアナウンサーの専門性は全く別個の芸能性、芸人的属性を含まざるを得なくなっていった。80年代の後半、世に言われるバブル最絶頂の爛熟期のあたりのことだ。それからさらにふためぐりほどした現在、アナウンサーとはキャスター、アンカー、司会者、MCなどいずれ口頭の芸能者的属性のそのどれもを便利に器用に「マルチ」にこなせるのが理想、と勝手に思われるような稼業になっている。

 「だから」、そのような現在をきっぱりあきらめて、かつてのアナウンサー、それも往年のNHKのあの専門職の権化のように見えたアナウンサーたちの「淡々たる態度」、ただ「事実」を「情報」としてあらかじめ決められた原稿通りに読み上げる機械のような正確さと、「報道」というもの言いに伴っていた装われた中立性とに立ち戻ることが必要なのだ、という脈絡になってゆく理屈なのだが、しかし、かつて言及されていたそのような「淡々たる態度」とはむしろ昨今とは全く逆、あるべき望ましい「報道」のありかたにとってはよからぬ傾向として槍玉にあげられていたようなのだ。

 「NHKは「二千万世帯が相手である以上、わずかな意味づけも好ましくないので事実の提供にのみとどめている」という。(…) (そのような)客観主義は取り扱う事実に重みを感じないから、ご都合主義にも通じてこよう。」

*3
 NHK的「客観主義」はこのように不満げに、「ご都合主義」と野合すらして論われている。どう見てもポジティヴな意味で使われているとは見えない。「事実の提供のみにとどめている」のはもちろんそういう「客観主義」のためだろうが、しかしそういう「客観主義」準拠の「報道」は、「取り扱う事実に重みを感じない」から「ご都合主義にも通じ」てくる。

 ならば、その「事実に重みを感じない」報道とはどういうことか。彼ら報道現場の人間たち、アナウンサーならアナウンサーという職掌が自分たちの扱う情報としての報道素材の「事実」の個々それぞれに対する「重み」が欠落してくるはず――概ねそんなところだろう。「重み」を感じないような平板な「客観」は、形式的には客観的であるかも知れないが、しかしそれは二千万世帯というその他おおぜいの世間≒マス、に対する「報道」姿勢として考えるとその「報道」の主体性というものをないがしろにすることになるのではないか。つまり、報道全体の伝えるべきトーンや調子といったものに対する無責任、最低限の「主体性」すら見えないものになってくるのではないか――ざっくり意訳翻訳してみるならばそういう感じだろうか。当時の語彙で言えば「非人間的」で「血の通わない」報道にしかならないではないか、といった悲憤慷慨の調子さえもがどこか聞えてくる気がする。

 「客観主義」という場合のその「客観」とはどのようなものだったのか。今のわれわれが口にし、文字にもする「客観報道」と、当時の人々が考えたそれとの間にはすでにもしかしたら全く裏返しの意味の反転、裏返りみたいな事態もうっかりとはらまれているのかも知れない。

 けれども、ここに紹介したかつての文脈においては、「報道」に求められていた望ましい報道の仕方、やり方というのはどうやらそういうものではなかったらしい。当時当たりまえだった淡々としたNHKに代表される「客観主義」の報道ではなく、それら報道される「事実」に対して「重みを感じる」主体が報道する報道こそが望ましい、と。

 昨今、web環境の浸透と共にいわゆるマスコミ、テレビラジオから新聞に至るまでの世間一般その他おおぜいを相手に「報道」してきた稼業に対する不信感がかなり一般的になってきている。いわく、あらかじめある方向に誘導しようとしている。いわく、特定のイデオロギーありきで事実をねじまげている。いわく、ご都合主義で自分たちの業界や立ち位置ポジショントーク的に具合の悪い情報はあらかじめなかったことにしてスルーしている、云々かんぬん。近年の論調だと、たとえば「メディア・リテラシー」といったもの言いと併せ技で、たとえ「普通の人たちにもわかりやすくするため」の善意からであっても報道する側があらかじめ報道する「事実」を編集したり改変したりした上で提示してくるのは大きなお世話だ、報道される事実を受け止めて解釈し、判断するのはこちら側視聴者の作業であり、メディアはそのための素材としての「事実」だけを「淡々と」報じてくれるだけでいい、といった方向に概ねなってゆくだろう。「マスゴミ」などという言い方でその不信感や違和感を表現しようとすることもすでにもう珍しくはないのだし、決してweb環境やSNSの世間での「隠されたもの言い」としてだけでなく、いや、それらの背後に確かに生身を伴った現実の側の気分の〈リアル〉として確実に。

 だから、淡々と事実だけを報じてくれるだけでいい、といった方向での穏当な意見も出てくるし、実際ある程度の説得力を持つようになっている。かつて無味乾燥と言われたアナウンサー調の語りでいいから、事実だけをストレートに淡々と伝えてほしい、それらを総合して判断するのはこちとらひとりひとりの責任だし、その程度のメディアリテラシーはもう持っているつもりだから――ざっとこんな感じの「世論」が少なくともweb介した世間ではそこそこ一般的になっていると思う。

 けれども、一見穏当で常識的で、だからこそ良識的にも見え、聞えるそれらの意見は、果たして本当に昔も今も変わらない「報道」の「正しい」ありように忠実なものなのだろうか。*4

*1:報道とジャーナリズムの違い。まあ、このへんはこの書き手の個人的な語彙かも知れないけれども、その背景にある「客観主義」の報道なりその話法文法なりが否定的にとらえられる文脈もかつてはあり得たらしい、ということは自分的にはちょっと新鮮だったりはした。付言しておけば、いわゆる「良心的」「進歩的」なイデオロギーに従った報道が「正しい」と想って居る、といった、これもまた昨今割とありがちなマスメディアの報道姿勢に対する世間一般的な解釈とも違う。少なくともこの書き手は当時でさえもそのようなイデオロギーありきの考え方から距離を置いていた、そういう立ち位置の御仁ではあった、為念。

*2:このへんは、当時加速され始めていたはずの当時のマスメディアの生産点の状況の、当時のもの言いで言えば「非人間性」、現場の疎外のありように対する違和感も下地のひとつではあるらしいことが推測される。「事実」に対する手ざわりや実感、体感みたいなものが現場でもそれまでと違うものになりつつあったということか。そう感じるこの書き手側の世代性などもあったかも知れない。あるいはまた、当時受信世帯が急増していたテレビを主に想定しての文章なので、それまでの新聞など活字媒体における感覚との比較という面も含めて。

*3:聴取世帯が二千万世帯というのは1960年代半ばに達成したテレビに関する数字。戦前以来のマスメディアであり先行していた同じ電波媒体のラジオとも違う報道のありようについて察知し始めているフシもある。同じアナウンサーの「口調」であっても、ラジオと新たに勃興してきたテレビのそれとの違いももしかしたらすでにあったのかも知れない。聞き手の側の感覚の違いの有無など他の補助線も含めて。

*4:このへん、昨今のマスコミ系ポエム全盛の現状などと比較しながら、継続的に要検討事案。