「団塊」の乱反射とその背景

*1

団塊の世代が抱いている自己イメージは、全くの錯覚です。高度経済成長は1955年から1970年までの経済の成長であり、70年に一度終わっています。団塊の世代が働き始めたのは1970年後以降であり、彼等はそれまでの先人が作った経済システムにただのりしたに過ぎない。」

「なのに、それをまるで自分が作ったかのように錯覚しているのです。団塊の世代は、貧しかった親とは違い、時代が流れるに連れ、親に比べて自分はどんどん物質的に豊かになってゆくという強い意識の中で育っています。それは団塊の世代特有の意識です。現代の若い世代は逆を意識しています。」

 「団塊」(の世代) のイメージがすでにあれこれ乱反射して、定義云々よりも先にまず「いまのニッポンをこんなにしちまったのは誰だ!?」という「どうしてこうなった」的責任追及事案の焦点みたいになっている分、現状の不満や不安、屈託憤懣の類のはけ口を求めてどんどんわけのわからないことになってきていることは、何も自分だけでなくもうそれなりに指摘されてきているとは思う。だが、だからと言って「正しい」定義を求めて何千里、といった方向にだけ事態の解決を求めようとする不自由もこれまた例によっての不毛なロンパー合戦、あるいはためにする議論討論ごっこにしかならないのもああ、すでに本邦web世間は天下のお約束になっているわけで。

 TLに流れてきた冒頭の認識もまた、「高度経済成長」の手柄を自分ごととして勘違いしている「団塊」、というイメージに収斂してゆく話法がきれいに示されている。とは言え、たとえば「親に比べて自分はどんどん物質的に豊かになってゆくという強い意識の中で育っ」た世代というのはそれ以前にもあったはずで、そのような属性を「団塊の世代特有」とまで言い得る根拠は、何も学術的に信頼できるかどうかとまで言わずとも、単に漠然とした印象としてだけでも説得力を持たせるのがちょっと難しそうではある。*2ここでの主張の力点は「現代の若い世代は逆を意識してい」る、というところにあって、要はどんどん貧しく貧相になってゆくそれら世代感覚、おそらくはロスジェネ氷河期世代あたりの切実な〈リアル〉が出発点なのだ。そこから、ならば「どうしてこうなった」を説明しようとする際、それ以前の「豊かさ」へ向かう過程を自明に同時代として体験し、生きてきだろう先行世代が仮想敵として浮かび上がる、という認識のありようこそがことの本体。つまり、自分たちの責任じゃないのにこんな時代に生まれ合わせちまった責任追及をありがちな「おとなが悪い」文法にざっくり落とし込み、そこにうまく合致しそうな先行世代の形象を探したら格好の素材として「団塊」が見えたという、まあ、書き手のモティベーションの成り立ちを推測すればざっとこんなところではないだろうか。よくある定番「おとなが悪い」の、その「おとな」のある程度具体的な形象が「団塊」になってはいるわけだ、「おはなし」の構造としては。

 とは言え、ここで論われているような、高度経済成長の「豊かさ」は確かに自分たちが作りあげたものだ、と何らかの確信と共に言挙げする/できるような世代というのは、現実に存在していないような気がする。実際、われ(ら)こそが今のこの「豊かさ」のファウンダー、粒々辛苦で苦闘してようやくこの果実の収穫の下ごしらえをすることができた開拓者的第一世代だった、といった自認の仕方というのは、ある一定の「世代」というくくり方はもとより、たまたまの個体としてでも、自分的にはこれまでほとんどお目にかかったという印象がない。いや、それは内心思っていたのかも知れないし、そんな露骨な「団塊」身振りを無防備に晒すような物件と接してこずにいられたおまえが例外的なのだと言われるのかも知れないのだが、ここで言われているようなはっきりした言動や態度表明という意味においては、ほんとに身近に接した経験がまずないようなのだ、自分の記憶の範囲では。

 朝鮮戦争から高度経済成長にかけて、後にそれを「豊か」と言い得るようなそれなりの「豊かさ」を実現してゆく過程というのを、ざっくり昭和20年代半ばから40年代半ばにいたる20年と考えたら、その時代に社会の中核からある程度の指導層として働いた世代というのは30代から50代そこそこ。昭和20年代半ばを基準にすると明治末年から大正末年生まれ。40年代半ばが基準だとそれらから20年足して大正後半から昭和10年代半ば生まれということになる。それらを世代的な認識や実感などを推測しながらさらにおよその平均的イメージをとるなら、「大正生まれ」ということになるのではないだろうか。1968年の「明治百年」に際して最も好意的に反応したのもこのあたりの「大正生まれ」だった印象があるし、それに対して激しく異論を呈していたのが昭和10年代半ば以降に生まれた「少国民世代」から戦後生まれのいわゆる「団塊の世代」あたりまで、当時概ね20代の「若者」世代だったように思う。*3

 「明治百年」という節目を「祝う」という、当時の佐藤内閣が打ち出した方針を介して露わになったとも言えるこのような対立の構造は、しかしことの本質としては、あの「戦争」体験をどう意味づけるか、に関わってのことだった。もちろん、当時のもの言いなどを見ても、「そもそも明治維新このかたの本邦近代の歴史をどう考えるのか」という大文字のお題が「若者」世代の側から打ち出されてきて、「明治百年」を「祝う」という立場はそれらを肯定的にとらえることである、という解釈の上に抵抗感や違和感を表するというのがその「若者」世代側の主張の下地にあったのは見てとれる。けれども、それら表面上の対立構造とその上にやりとりされていたもの言いを実際に操っていた生身の人がたというのは、立場の相違の下方にあの「戦争」をどうくぐり抜けてその当時まで生き延びてきたのか、という共通の大きな問いを共有していたらしい。*4

 当時うっかりと、現在進行形で達成してゆかれつつあった「豊かさ」をどう評価するのか、という問いが、同時に「維新このかたの本邦近代史をどう考えるのか」という大文字の命題に置き換えて理解されることがある世代を中心に広く共有されるようになり、しかし、それらを間にして対立していた人たちは共に「戦争」という大きな共通体験を共有していた、というこの構造。その意味で当時の「おとな」というのは、あの「戦争」をある年齢以上で経験して、なお幸運にも生き延びることのできた眼前のある世代以上、具体的には「大正生まれ」でくくられるのがわかりやすいような世代の人がただった。それに対して、同じ「戦争」を未だ社会の成員でない「子ども」としてしか体験できなかった、だからその分圧倒的な「被害者」としてだけその体験を意味づけることになった当時の「若者」世代である自分たち、という対立的な関係に、眼前の「豊かさ」に対する当事者性の問いが上書きされてゆく。*5

 つまり、いまどきの「団塊」(の世代) というもの言いの背景には、このような仕掛けを介した広い意味での「おとな(他者)/若者(自分たち)」話法とそれにまつわる歴史的な経緯がどうやらからんでいるらしい。その来歴をたどってゆくと、「高度経済成長」(のもたらした豊かさ) をどう説明し意味づけるか、を軸にしたかつての「明治百年」論争当時の対立図式に行き当たる。それは、あの「戦争」という国民的共通体験をどのように意味づけるのかによってくっきりと別れていたらしい「大正生まれ」(のおとな)と(当時の概ね20代の)「若者」の世代感覚の間に刻まれていたある不連続線に規定されるものだった。言葉本来の定義としての「団塊」(の世代)というのはこの後者、当時の「若者」のうちの後発世代だったはずなのだが、その「おとな/若者」話法だけがその後ずっと伝承されてゆく過程で、いつしかその「おとな」の側をひとくくりに現わす必要がある際に便利に使われるもの言いに「団塊」はなっていったらしい。立場の相違や世代の違いを越えて (あの「戦争」体験のように) ひとまず国民的規模での共通体験として自明のものであった「高度経済成長」の「豊かさ」が、「失われた三十年」によって日常感覚としての「むかし」≒過ぎ去った過去になってゆく中で、かつての「戦争」を社会的な成員として体験した「おとな」への違和感や対抗意識がそのまま持ち越された。その段階で「戦争」は「高度経済成長」に置き換わり、対抗的な「他者」としての「おとな」を現わすもの言いとして「団塊」が使い回されるようになった、というのが、ごくざっくり眺めてみた限りで、近年眼につくようになった「団塊」(の世代)というもの言いの乱反射と意味の多様化の、最も下層に横たわっている事情のような気がする。

 で、それらとは別に、ここはちょっとそのような「団塊」というもの言いの乱反射の現実の向こう側に、いくらかでも何か可能性も見つけてみたい、という次第。



*1:例によってのTL拾遺より。

*2:明治と大正の間、大正と昭和の間といった大雑把なくくりででもそのような「豊かさ」への距離感の違いはあったろうし、またそれが親に代表される年上の先行世代に対する感覚にも影響していただろう。逆に言えば、親よりも自分(の世代)は貧しくなってゆく、という感覚を持つようになった年下の世代という存在自体が、敗戦前後の落差以来のものかも知れない。そういう意味では、ここで触れている「大正生まれ」と「若者」の間の世代的感覚の違いの中に、大正末から昭和初期にかけての「豊かさ」を知っているかいないか、ということも、それに関する微妙な感情的歪みなどと共にひとつ確実に含まれていただろうことは指摘しておいていい。

*3:このへんは、たとえば「ボクラ少国民」の山中恒や早逝した盟友佐野美津男の意識などが最も尖鋭に、かつわかりやすくこの対立図式を反映していると思う。

少国民戦争文化史

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ボクラ少国民 (講談社文庫)

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浮浪児の栄光・戦後無宿

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昨今の「ウヨ/サヨ」図式だと間違いなく「サヨ≒左翼」扱いで片づけられるようなものになるのだろうが、しかしそれらの不自由を誠実にデバッグしながらの「読み」をパッチとして当てることができれば、そこに一貫して表明されている「世代」への問題意識とそれを成りたたせていた情報環境を介した「歴史」への意識のありようが、同時代の信頼できる民俗学的知性のものとして浮かび上がってくる。彼らが熱く語り、自らの立場の足場にしようとしていた「児童文学」というのも、そのような「戦争」を介した「若者」世代の自意識と抜き難くからんだところに宿っていたある指標のようなものだと理解しないと、いわゆる巷間語られているような児童文学の間尺のままだと、これもまた闊達な「読み」を阻害する大きな不自由をそのまま受け入れることになる。 king-biscuit.hatenablog.com

*4:その「若者」世代というのは、大学の大衆化がそれまでと違う傾きで露わになってゆく最初の世代でもあったということが、それら大文字のお題がある程度まで共通のスローガンになり得た前提のひとつだっただろうことも含めて。

*5:「戦争」に対して圧倒的かつ全面的な「被害者」としてだけ自覚してゆくこのような主体のありようは、わかりやすく言えば〈おんな・こども〉の立場ということでもある。「戦後」の言語空間における「戦争」体験の意味づけられ方としてこのような〈おんな・こども〉の立場が主体として増幅されてゆき、後にそれは「わたしたち」という複数一人称や「市民」などまで自明の主体として想定するようになり、さらに近年は「被害者/弱者」話法を「正義」として振り回すような意識の流れにも連なってゆくことは、「戦後」の本邦における常民的な社会意識を民俗学的な視点から考えようとしてゆく際の、かなり大きなお題でもある。