ご先祖さま万歳・メモ


 生きものとして逃れられない生き死にに関することのうち、「生」はとにかく少子化の現在が深刻なのは言うまでもないが、それもあって出産そのものが人生における稀少なイベント化してゆき、同じく稀少イベント化している「結婚」まわりのビジネスの華美化、女性向け商品化と基本同じ方向で、出産に関するあれこれもどんどん新たな消費アイテムになりつつつつある。一方、「死」の方は高齢化と対応して、これもまたこれで従来とは違う方向への消費アイテム化、商品化が進行している。

 葬式自体、個人葬家族葬的な形が静かに浸透し始めているようだし、何より会社や職場などでも本人が亡くなった場合はいざ知らず、一緒に住んでいる家族であっても夫婦や子ども以外、それぞれの親や親戚程度の関係で発生した「死」についてはいちいち知らせず、密葬なり家族葬なりした後、事後報告的に知らされるケースが増えてきている。おそらく地域社会においてもそのような傾向は進んできていると思う。「死」が、その所属する社会や組織、集団にとってのものではなく、純粋に個人のもの、半径それらの範囲でのイベントとして単純化されてゆきつつあるらしい。

 一方で「ペット」の「死」について、はある意味人間よりも事件として意識され、それだけ重視されるようになってきているフシも。少なくとも新たな「商品」開発の場にはなっているようで。
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 で、このような方向は当然、人間の「死」についても地続きになってゆく。ここでは犬猫その他「畜生」と人間との仕切りなどは当然、溶解し始めている。*1
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 このような「死」の身近なアイテム化はペットと人間、果たしてどちらに対して先に始まったのか、当て推量だがペットについての商品化が先行していた可能性もあるような気はしている。これまでの位牌や仏壇といった定型はほとんどもう考慮すらされていない。いや、むしろそれらの定型自体に対する忌避感が、このようなゆるふわおしゃれ方向へのアイテム化の駆動力になっているフシがある。位牌や仏壇などに始まり、寺と坊さん、墓地と石屋、葬祭場と葬儀屋などが自動的に関わってくるような、通俗的な意味での仏教系の「死」の処理に対する「おしゃれじゃない」といった気分による全面否定。昔からの習慣だから、「そういうもの」だから、といった説明であれこれ理不尽など感じつつも受け入れられてきたそれら定型が、世相風俗的な「流行」によって押し流されつつある。
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 これら「死」の身近なアイテム化の流れに沿った「家族葬」から「手元供養」といった葬儀のありようもまた、「ムダを省く」「経費削減」といった経済的な合理性にも後押しされ、ゆるふわ風味の正義として「時代の流れ」の脈絡に回収されてゆく。少子化と高齢化の進行は、それぞれ生き死にに関すること、「生」と「死」についてのありようから変えてゆかざるを得ない、否応なく。*2
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 是非もない。ただ、問題はこれらが単に世相風俗としてのみならず、「民俗」レベルも含めた本邦生活文化的にもう少し大きな問いもはらんでいることであり、そしてそのことを世間一般その他おおぜいはあまり自覚もしなくなってきているらしい、そのへんのことでもある。

 先祖供養が無くなった未来の日本って、一体どんな国の形になるんだろうと、色々考えさせられますね。

 そう、「ご先祖様」のありようからして、さてこの先、果たしてどうなってゆくのだろう、ということも、また。*3

*1:これから先、一緒に住んでいた犬や猫も人間と同じく、いやヘタをすればそれ以上に親密に「ご先祖」の範疇に入ってゆく可能性もあり得る、と思っている。

*2:生き死にの市場化がこれまでと違う新たな段階に入りつつあるということでもあるような。ここでもまた広義のグローバリズム、市場の全面化が見てとれる。

*3:言葉本来の意味だの、またかつてある時期までの定型という意味での「民俗学」と「民俗学者」ならば必ず何らかの応答をしなければならない〈いま・ここ〉の問いではあるはずで。たとえ学生若い衆の卒論やゼミ論の類においてでも、それこそ○○社会学といったパッケージでも何らかの言及や現状についてのレポートなどはすでに蓄積されてきているはずだが、だが、ジャーナリズムも含めてそれらについて民俗学の視点からのいくらかまともな考察や分析の類は、なにせ世に遠いひとつのFランにいる身の上でもあり、あまりまともに聞こえてきていない。どこかで誰か篤志の御仁が見合う仕事をしてくれていることを信じてはいる。