「アメリカ」の重厚長大・メモ

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 洗剤も泡立つ方が汚れが落ちそうってイメージがあるから発泡剤とか入れてるみたいですしね。4〜50年前に親が訪問販売で買ったアメリカの水フィルター掃除機レインボー。50万くらいしたんじゃないかな?(笑)木目調といいミキサー並みの騒音もアメリカっぽくて自分は何故か好きだった。


 要は吸引力が大事。トイレにあるハンドドライヤーも全く同じ理論ですね。乾き方で比較すると日本のはオモチャに等しい。


 車もそうかも知れませんね。トランザムとか結構やかましそうです。


 食事はビビッドにカラフルなほうがいいとか、どうにも派手さが好まれるような…?携帯電話も小型化したものよりも大型の旧式のものの方が高性能と思い込む逸話を聞く限り、なるほど!!ありうる!としか思えません。


 家電メーカの人が「この業務用に見えるデカい掃除機、実はアメリカの家庭向けの製品で、コンパクトなのは掃除した感が生まれないから買われない」って。アメリカの掃除機はうるさい。
装甲車みたいにゴッツイ車の方が事故っても安全と言うアレと同じ思考だな。


 エアコンもそうですかね?日本のは静かなのに、外国のはうるさい!!寝てられん!!笑えますな。食洗機の音とか、冷蔵庫の音とかもですかね〜。


 アメリカは重い方が頑丈な感じがして好まれると聞いた事あります。日本人のように丁寧に扱わないので、すぐに壊れる品物は嫌がられると。日本人は同じ機能なら小さくて軽い方を好むので、随分違いますね。かなり以前に一読したハーレーダビッドソンの試乗レポートで、「国産バイクのデリケートな操作感と違う。クラッチレバーをグイッ、シフトをガシャン、ブレーキペダルをガツン、なんかもう機関車を運転してるような気分」云々と。機械の操作感にも国民性や企業色というか、面白い話で覚えております。


 似たような理由になるのかな?イタリアのアルファロメオの開発本部には新開発する車が「アルファロメオらしい排気音」を出すための音響解析センターがあるそうで。。。わずかしか発声時間のない子音中心の英語は、息の続く限り発声できる母音中心の日本語よりやかましく発声する必要があるのも影響しているかと。同じ理由でコソコソしか喋らない日本人の英語は通じない以前に相手に聞こえない。


 湿布が臭いのと同じ理由かな。あれも本当は無臭に近くできるらしいけど、匂いが強いほうが効いていると感じるからだとか。同型の自動車も日本向けは燃費重視で、アメリカ向けは加速性重視で調整しているらしい。日本でいう大人しいガリ勉タイプはナードと呼ばれカースト低く、体育会系がカースト高い。その辺を踏まえると、掃除機もパワーありそうものが好まれるのかと。アメリカ帰りの教授はあいつら脳筋って言ってた。


 アメリカ向けの自動車が高加速なのは、向こうでは赤信号でも常時右折合流が可能(左側通行の日本で言うと、左折矢印が常時緑なイメージ)なので、本線の車の流れの切れ目に割り込んで右折合流するために高加速が必要なのです。道路事情で加速性が必要ってこともあるんですよね。他にも高速の流れも早いので、パワー無いと、合流が危険とも聞いています。

 「重厚長大」というか、とにかく実質として具体的なブツの手ざわりや重み、体感が「ある」世界。数字やスペックなどでなく、生身の身体肉体を介して否応なく実感できる、せざるを得ないどうしようもない「ある」感。重い、大きい、分厚い、の無限連鎖。30年以上前、おっかなびっくり訪れて数ヶ月居候まがいの珍道中をやらかした自分にとっての「アメリカ」も、確かにそんな世界だった。

 部屋のドア1枚、そこにつけられているノブひとつがとにかく重くて、確かに「ある」ことを自己主張してくる。ダイナーのグラスや皿、ナイフやフォークのひとつひとつまでもが重く、持ち重りがする。牛乳でもオレンジジュースでも、あのガロン単位のプラスチックボトル。日本語の「ペットボトル」の語感ではとても間に合わない。オートバックスなどで売られているエンジンオイルとか、そういう「機械」「マシン」を維持管理して動かしてゆくための部品や道具、メンテ用品といった趣きで、それをがっつり抱えて呑む若い衆の姿までもが、ああそうか、ニンゲンってのも「機械」と同じ、こうやってメンテしてやって初めてまともに動く、そういうあたりまえが共有されている世界なんだなぁ、と思い知らせてきていた。

 この「違い」はあらゆる局面でどうしようもなく決定的で、かつ本質的なものなんだ、と思った。physical であること、その単語の響きの向こう側にあるらしいそのどうしようもない手ざわり、実体を伴った「ある」という感覚こそが、この現実を規定しているらしい。少なくとも彼ら彼女らにはそう見え、感じられているらしい。その上に積み重ねられ、そのように成り立ってきたさまざまな約束ごとの上に〈いま・ここ〉は存在しているということらしい。けれども、この自分はそのような彼ら彼女らの〈いま・ここ〉と完全に同じ手ざわりや実体を伴った感覚は共有できないらしい。

 あっけらかんとphysicalであること、そういう〈いま・ここ〉の「発見」は、そのような意味で、自分がそれまで生まれ育ち、生きてきていたもうひとつの異なる〈いま・ここ〉についての成り立ちを改めて振り返ってみるきっかけになったことは、とりあえず間違いない。30年以上たった今でも、その実感については変わっていない。

 とは言え、西海岸以外のアメリカ本土に足踏み入れたことが今世紀に入ってこのかたないまんまの分際で何をエラそうに、というのはあるけれども、基本的な認識のありようという意味で乞御容赦。

 

 

 

 

*1:こういう素朴な実感主義的報告の断片の類は、Twitterに限らず、以前からのweb介したコミュニケーションの醍醐味のひとつ。「細部」は電網に宿るご時世、そしてそういう情報環境、かも。