脳の容量の外部化、新たな vivacious

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 だって昔なら、夜中にふと「〇〇って映画の監督誰だっけ」って思うても調べ様がなく、わからぬ事として心の中にわだかまるだけだったんですよ。今なら何でも検索したら出て来る。つまり脳の容量の外部化というか知識を溜め込むことの重要度がかなり下がった。

 「暗記」というのが、勉強なり何かものを考えようとし始めた時に、かなり最初の段階で強要されてくるプロセスだった。

 「知識」を「詰め込む」。理屈や能書きでなく、ただとにかく「覚える」ことを第一義にしてひたすらそのための作業を繰り返して行く。それは英語ならば単語帳をこさえて、それをただ念仏のように繰り返してゆくことであり、あるいは歴史ならば年表と対峙しながら手もとにノートを作り、それをまた繰り返し巻き返し眺めては、口の中でぶつぶつと年号や年代とできごとの関係をつぶやいて身の裡にしまいこんでゆこうとする、そういう「単純作業」のつまらない過程ではあった。

 英語という科目にまつわるそのような「暗記」伝説としては、コンサイスの辞書を一ページずつ食べてしまう、というのがあった。覚えたページから破いて口に放り込んでしまう、その異様さでまず誰もがある世代までなら記憶にある「おはなし」だろうが、しかし考えてみたら「暗記」を目的としてどうしてそのような辞書を食べることがつながっていたのか、わかるようでいまひとつよくわからない。

 本を読む、ということが集中することと必ずセットの行為であったこと。そしてそれは内向的な意識のあり方を必然的に作ってゆくようなものでもあったこと。そういう自意識が〈知〉の宿る前提であり、そのような生身の個体こそがあり得べき「個人」であるとされていた。「暗記」というのも、そのような集中と内向によって縛られる自意識との関係で、それなりの効率なり実効性なりを現実のものにしていた行為だったのだろう。

 「暗記」によって自分の内側に「蓄積」された「知識」「情報」は、それが何か私有財産のような感覚で抱え込まれて、何かあるごとにそれが参照のソースになる。そういう使われ方がそれら「蓄積」された「知識」の役割だった、とりあえずの「試験」なり「勉強」なりという局面では。頭脳の容量やその効率、性能が必要以上に重要なものに感じられていたのもある意味、むべなるかなである。

 翻って昨今、「知識」「情報」の「蓄積」が外化され、その参照や引用もまた外部のデバイスを介してできるようになると、「暗記」と「詰め込む」ことで成り立っていた「知識」の「蓄積」に最適化されていた頭脳のあり方はもとより、それらを前提につくられるものだった自意識も「個」もそれまでと違う様相を示すようになってくる。あたりまえのことだ。

 外化された「知識」「情報」の「蓄積」を手もとで操りながら本を読む、あるいは同じようにデバイスを介して「情報」を取り入れる、それらの過程でものを考える、いずれそのような〈知〉へと収斂してゆく営みをすることが当たり前になってきている近年の情報環境。わざわざ「暗記」して「蓄積」することに常に生身を緊張させ、頭脳をそちらへ稼動するように意識することから解放された分、集中と内向によって規定されていた自意識も一気に散漫に、拡散したものになってゆかざるを得ない。

 いつも機会あるごとに言及している柳田國男の、近代になって自分たちはさまざまな本をさまざまに読むようになったことで、vivacious になったというあの表現も、「快活」「明朗」といった辞書的な意味あいだけでもなく、おそらく「軽薄」であり「はしゃぎがち」であり、ある意味女性的でもあるような性格を実装するようになったという含みを持ったものだったのだろうと思う。論より証拠、英英辞典を引っ張るとこんな表現で説明もされているではないか。

A vivacious person, especially a woman or girl, is attractively energetic and enthusiastic:

 多方向に興味関心を素直に向け、素朴に明朗で快活で、オンナのコのようにキャピキャピした性格を持つようになったと言うことは、それまでの「書を読む」読み方で鍛えられていたような、今よりもさらに集中と内向に鍛錬されていたような〈知〉とそれを宿した生身のたたずまい――それはほぼ男性の属性でもあったはずだが、いずれそれらがみるみるうちに近代と共に煮崩れていった痕跡を、改めて柳田のそのような表現から読み取ることができる。 

 そこからさらにもうひとつの近代、デジタル環境が新たに整えられていった20世紀末からの〈いま・ここ〉において、もうひとつ異なる段階の vivacious をまた、われらは同胞の若い衆世代からあたりまえのものにしてゆきつつあるらしい。講義の場で、記者会見やレクチュアの場でノートパソコンを当たり前に開き、スマホタブレットを手もとにゆき、生身はその場に臨みながら話を聞きながらそれらデバイスを操作し、その場にいない他の誰かと情報交換をし、モニタを介して会話もし、同時に録音な録画も同じデバイスで行なっている。少し前までのような集中と内向によって鍛錬されてきた自意識など、とてもそのままでは対応も追随もできないだろう。是非もない、良し悪しもまたない、「そういうもの」としての〈いま・ここ〉の現実にさて、ならば〈知〉は、そのように名づけられてきたような情報の蓄積とその参照や引用の体系は、この先どのような新たなありようを自分のものにしてゆけるのだろうか。

*1:例によってアカウントが凍結されたりすると、引用してもブランクになってしまう……Twitterという仕組みの問題とは言え。