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近現代史でも社会学でも (もちろんポンコツ民俗学でも)、いずれ〈いま・ここ〉眼前から地続きの事象を相手取るガクモンなりジャーナリズムなり何なりは、何よりもまずごく素朴に「野に遺賢あり」ということに正しく謙虚になることが前提条件だと思う。ことの本来としてそうあるべき、といった倫理規程条項などではなく、現実的にそのような作業を行なって何か同時代に役に立つような仕事をしようと本気で思っているのなら最前提、かつ最低限の認識として持っておかねばならない部分として。まして、本邦近年いまどき情報環境下においては。
個々の出自や背景、来歴その他とりあえず無関係に、誰もが自身の体験や見聞の範囲で何かそれなりの貢献ができる、「ああ、あるある、それ」的な共感と共に参加してゆくことができる、そんなガクモンなり〈知〉のありようを夢想して、それなりにガチに運動仕掛けてみた人がたのひとりが、たとえば柳田國男だったりしたはず、なんだが、な。
「専門家」とか「プロ」とか、「研究者」とか「アカデミシャン」とか、いずれそういうもの言いで自ら好んで何か背負ってしまう、そういう態度立ち居振る舞い自体がもうすでに、〈いま・ここ〉地続きの事象を相手取って何か「わかる」につなげてゆこうとする営みの本願から無縁のものだったりするんだわな。
「豊かさ」ごかしの大衆社会&消費社会化がある閾値越えて全域化していった状況での「社会」科学なり「人文」学なりのありようもまた、それら社会のありように応じて変わってこざるを得んらしい。それらの中の人がたがそうと感じとらんうちに。
サブカル「だけ」が社会じゃないし、ゲンジツでもないのはそんなもんあたりまえと言うかも知れんが、でも。案外そういう枠組みに横並びに殺到して「競争」しまくっとったりするみたいなんだぜ。
それこそ、たとえばマンガだのアニメだのゲームだのラノベだの(以下随意)をマジメに善意でガクモン沙汰評論批評文法話法で語ろうと熱意燃やしとらす界隈なんか、精緻で微細で精力的なのはわかるんだが、でもそれいったい何のための、というギモンもまた同時に否応なく手もと足もとに湧き上がってきていることにさて、どれだけそういう中の人がたのまんまで気づいてゆけるものか、というあたりも含めて「はじめの一歩」的な問いになりつつあるような。
だからこそ改めて、「おりる」ことの必要、「名無し」という主体の確立、そしてそれらのゆるやかな協業連携と、そのための作法や約束ごとも含めた「関係」と「場」の共有。TwitterなどSNSの、もしかしたら極めて本邦ポンニチ的な使い回し方かも知れないところでの、ある可能性。