映画という「娯楽」

 映画が「娯楽」であることにどれだけ葛藤し、煩悶してきたのか、というお話。

 映画産業として絶頂期の敗戦後、昭和20年代から30年代にかけての時期に、戦前までのそれとはまた違う次元の大衆社会化を迎え、それこそ「視聴覚文化」などのもの言いと共に改めて新時代の情報環境における優位性を喧伝されるようにもなっていた本邦映画の自意識というのは、その大衆社会化の中で否応なく「娯楽」としての性格を強調されざるを得なくなっていったことに対応しながら、「いやそうじゃなくて」的な自己否定を懸命に、かつ健気にするようになってもいたらしい、ということ。

 そりゃあ、こと「映画」となればもうてんこもりの汗牛充棟、思想哲学文学芸術方面からのシネフィル系能書きは言うに及ばず、歴史社会学だの文化社会学だのの相も変わらぬ人文教養系叩き売り業界から、さらに近年はまた「表象文化論」だの何だののでっかい提灯と共にアニメやマンガその他いわゆる2次元系の映像表現と勇躍一緒くたに語るのが流行りでもあるらしく、うっかり映画のことを人文系の脈絡で触ろうとすると予期せぬしちめんどくさい絡まれ方をされちまいかねないご時世。老害化石脳的にゃなるべく回避したい厄介のバミューダ海域みたいなものなんだが、それでも触っとかにゃならんものは触っとかにゃならんわけで。

 「娯楽」ではなく「芸術」なんだ、という力一杯の主張が今となっては逆に新鮮だったりする。それは、どうして「娯楽」じゃそんなにダメだと思われていたのか、ということが〈いま・ここ〉からはかえってわかりにくくなっているということでもあるのだが、いずれにせよ、本邦映画を語ったり論じたりするそのことばやもの言いの布置連関、お好みなら「言説空間」とか言い換えても別にいいけれども、そういう部分を補助線として常に意識しながらもう一度、なるべくまるごとの情報環境としての「同時代」の文脈に寄り添いながら、窮屈でせせこましいところに幽閉されちまっとるように見えるこの「映画」というやつを、勝手にどんどん解放しちまおう、という算段。

 たとえば、大島渚の若気の至り満々な当時の書きものなどから。

戦後映画・破壊と創造 (1963年)

戦後映画・破壊と創造 (1963年)

 或る批評家達は芸術作品を創る十人内外の映画作家を論ずることに精魂を傾けている。また或る批評家達は映画会社の商業主義への論難と観客大衆の世論調査に夢中である。

 置き忘れられた重大な問題――それは批評の対象とならない、しかも日本で製作上映される映画の九〇%を占めるところのプログラム・ピクチュアと、その製作に携わるものの意識である。

 彼らは誰しもがいつの日か優れた芸術作品を創る作家でありたいと願う。だがかりに彼らの一人が木下惠介或いは黒澤明であり得たとして、他の数十人が悉くプログラム・ピクチュアを演出していたならば、それは日本映画の発展にならないではないか。明後日がもし今日と同様であるならば彼らは生きて映画を創っていたことにならないではないか。
 彼らは何ゆえにこうした発想に至るのか。彼らが、プログラム・ピクチュアの中で働いているからだ。

 実作者であり創作者、今日風に言えばクリエイターである以上に批評家、評論家、論客としての視点がその態度と共に濃厚に現われている。だからその分、逆に今日的な視点から読み返そうとする時の、当時の時代状況や空気その他もひっくるめた環境に対する言わば舵の効き具合が非常によろしい。松竹という当時の大手映画資本の内側に、それも当時としては京大卒のまごうかたない幹部候補生として中の人になっていながら、早々にその「娯楽」産業としての本質の部分に客気満々に切り結んでゆこうとする、このあたりの大島渚の文体はなかなかに闊達で、いかにも規格外れな若い衆ならではのいい往き脚なのだ。
 
 それは同じ頃、彼と同伴的な道行きを始めていた石堂淑朗などにもくっきりと共有されているものであり、さらに斎藤龍鳳佐野美津男など、彼と彼らの周辺を少しずつかいつまんで拾ってゆくことで結果として連なって浮上してくる固有名詞群の間を確かにかがっていた、ある種強靭な糸のように見えてくる。大衆社会化と娯楽、大衆文化などいくつかの術語を介して前景化され始めていた当時の〈いま・ここ〉から発される大文字の問いが、彼らの仕事をかがりあわせるその糸をたどってゆくことで、それら術語ならではのもっともらしさとは別の、もうひとつの〈リアル〉として改めてこちら側の〈いま・ここ〉に立ち上がってくるように感じられるのだ。*1

怠惰への挑発 (1966年)

怠惰への挑発 (1966年)

 映画作家はまだ現代の神話の表現に迫る方法を発見できていないという感じがしきりにされ、その原因はいろいろあるにしても、その一つには映画は文学などと違った文化の体系ではあるまいかという錯覚を、映画作家が持ったことにあろうと思っていた。殊に日本の実状に即して云えば、文芸映画などという存在を気にしすぎるあまり、真の映画作家は小説などに色目を使うな、映画には映画独自の発想があるなどといって、フィルム・フェティシズムにおちいったことである(これには花田清輝などの撒き散らした悪名高い視聴覚文化と活字文化という図式が若干後押ししただろう)。そして遂には映画的思考などという珍語まで流行るありさまで、「情事」などもどうやら映画的思考の産物らしく、となると映画的思考などは実は何も考えないことを指すものらしい。
 思考は言葉によってなされるのであり、映画的思考あるいは映像的思考などというものは此の世には存在しない。犬だって猿だって映像は持っているのだ。芸術にとって問題なのはその基本構造、対象―認識―表現―(想像力)であり、その辺を抜きにしてジァンルの綜合もヘチマもあるものか。

 同伴者である分、そしてもの書き専業である分、こちらの石堂はさらに明快。はじまりにことばがあり、そのことはおのれの生身がおのれ自身としてあることとほぼ同等に、等価に自明で揺るぎないものである、という圧倒的な確信とその上に屹立した決め打ちの爽快。後に得手に帆を上げることになるシネフィル系だのなんだのの貧血丸出しな映画論、映像論など初手から鎧袖一触、何がどうなったかわからないうちに、あの高橋留美子の表現さながら「ちゅど~ん」とばかりにはるか彼方の虚空に蹴飛ばされてお星サマになるしかないだろう。

 山田洋次については、これまでもいくつかちょっかいを出して、それなりに喰いついてみたことはある。「娯楽」としての、そしてだからこそ同時にビジネスとして産業としての「映画」という表現を、大衆社会化の進行の中である種の民衆的想像力の依代として見てゆこうとする企てを、そのための道具立ての洗い直しともども腕力気力まかせにやらかしてみようとする場合、かつての大島らをかがりあわせていた糸のもたらす視野をもう少していねいに、できる限りちいさなことばともの言いとで描こうとしなければならないらしい。あるいは、佐野美津男山中恒などを介して「児童文学」というもうひとつのバミューダ海域、「戦後」の過程でそれこそ「映画」や「文学」その他と得手勝手に複合して相互に癒着してきていたはずの領分の、言わば本格的なドレナージをも含めて。

 本邦日本語環境におけるいわゆる人文社会系の信頼をもう一度、回復しようとするならば、それは必須の荒療治なのだと思う。
king-biscuit.hatenablog.com
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*1:大島、石堂、佐野の3人は共に1932年(昭和7年)の生まれ。龍鳳も、そして同じ松竹の中にいながらこの時大島に指摘された「プログラム・ピクチュア」の側でその後もずっとねばり続けることになる山田洋次も、前後数年の範囲でほぼ同世代と言っていい。このあたりの世代性とその性格については、彼らが概ねその後、高度経済成長が一応の終焉を迎えた後、およそ70年代後半あたりから露わにし始めることになったその限界も含めて、改めて素描しておかねばならないだろう。