でも、やっぱり「他人事」として描いとるような気はする。そういう「設定」のいわゆる「おはなし≒虚構の約束ごと、みたいな感じで。これを取り上げたがる記者も含めて。
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2019年5月8日
「安楽死へ国が勧誘」ロスジェネ監督が描く不気味な未来:朝日新聞デジタル https://t.co/cQwesPp5Pm
映像(アニメ含めて)だからそういう「他人ごと」にしやすい/なりやすい、ってのもあるかも知れんが。文字/散文系の表現だとどうしてもどこかで「読む」を介して「自分」の内側にうっかり導き入れてしまうことも含めてひとつの作法になっちまってるようなところ、未だに良し悪し別にあるとおも。
それに対して昨今のいわゆるラノベ系の散文(だろう、やっぱああいうのも)は、逆にそういう「読む」を想定してない情報環境or解読環境を前提にして成りたっているような印象はある。ここ数年の若い衆らとの道行き介して老害化石脳的に何となく察知したところでは。
〈リアル〉というのをどう考えるかにもよるだろうが、少なくとも「身にしみる」「身につまされる」といったもの言いにある時期まで確実に対応していたような、「他人ごと」「ひとごと」ではなく感じることのできるひとまずつくりものの現実。それこそ柳田がある時期割と好んで使っていたあの「同情」にもあたるような領域も含めての。昨今やたら濫用されるようになっている「寄り添う」「向き合う」などとはその土台から異なる意味において。
何のための「おはなし」、という問いを改めて設定してみる必要があるのだと思う。
それは別に社会的な意味や機能といった大文字の説明においてでなく、素朴に日々の現実を「自分ごと」として感じ取ってゆくための足場として、*1 いまどきの情報環境で何をそこに求めているのか、という意味において。
旧来の小説や文学でなくラノベが、映画やドラマでなくアニメやゲームが、いつの間にか「おはなし」の主要な媒体になってきてすでに久しいらしいこと。そのような「おはなし」摂取の経路がある世代以降にとってはあたりまえになっていて、それはこれまでのような意味での世代差とはだいぶ異なる「違い」を、この同じ時代を生きる日本語を母語とする同胞の間に平然と宿すものになっているらしいこと。
さらにその「違い」とは、それら眼と視覚を介して読み取られる「おはなし」の位相のみならず、耳と聴覚を介して聴き取られてゆく音声による「おはなし」の位相においても、どうやらのっぴきならないズレを生じさせているらしいこと。
それらを統合する生身の「自分」の裡に立ち上がるであろう意識や感覚が、少し前までの現実認識とその上の〈リアル〉とどれくらい違うものになっているのかいないのか、そのあたりの連続と不連続とを立ち止まって考えようとすることは、迂遠でかったるく無駄骨にしか見えないものだとしても、ことばと現実の関係をもう一度再構築して〈リアル〉の復権を志そうとする上では不可欠の作業になってくる。
文字や活字を「読む」経験を下敷きにしながら、現実を認識しようとしてきたし、その上で〈リアル〉もまた宿り得るものだったらしいから、余暇の娯楽として位置づけられていた「おはなし」メディアとの接触においてもまたその習い性のままだったこと。そのようにマンガを読み音楽を聴き映画を観てきたことの同時代性。けれども、どうやらある時期からこっち、そのような文字や活字ベースの「読む」の自明な優越性自体にもうすでに鬆が入り、現実認識の確かな足場にならなくなってきていたらしい。
ラノベにせよアニメにせよゲームにせよ、あるいはすでにダウンロードして単発の楽曲として刹那的に消費されることが主流になってしまった音楽商品にせよ、いずれ〈いま・ここ〉に眼前の事実として存在している「文化」事象として相手取ろうとするのならば、その相手取るこちら側、他でもないその自分自身がどのような情報環境の裡に現実認識を育んできたのか、そしてそれがどのような時代性や社会性と関わってきていたのかなどについて、方法的に自省してゆくことを同時進行で行っておけるだけの余裕なり迂遠さなり(同じことだ)が担保されておかねばならない。それらに気づいてゆくことが多少でもできる余地がその自分にあるならば、そのような主体ならば昨今概ねすでに足とられているであろう同じ日本語環境での「●●学」といった枠組みそのものへの相対化の視線もまた、どのような形にせよ宿らざるを得ないはずだ。