佐伯彰一の「歴史」認識

「時間の推移と共に、文学作品もまた歴史の一部と化してゆくという、僕の日ごろの感慨が又しても裏づけられたと、呟かぬわけにはゆかない。つまり、人間の現実の即席、その行動や蹉跌ばかりでなく、その願望と失望、夢とファンタジーまでもが、まぎれもなく歴史をなすに至るのだ。」佐伯彰一「摩擦の原点」p.199

「イメージは、もちろん日ごと新しく作り出され、生み直されつづけているのだが、一たん出来上がったイメージは、案外くずれず、生きのびるばかりでなく、イメージ独自の呪縛力というものもあるのだ。カントのいわゆる先験的カテゴリィなみに、大前提として、目のうつばりとして執拗にぼくらの内側にはりついて、事態の解釈の仕方までも押しつけてくる。人間は、たしかにイメージの生き物であるが、これには、たえず自分の眼で、耳で、手でイメージを作り出すと同時に、イメージによって逆に作られもするという両面を見のがすべきではない。ぼくらは、イメージの紬ぎ手、しかし同時にイメージの囚われ人なのである。」佐伯彰一「摩擦の原点」p.202

 佐伯彰一、という名前ももう忘れられているひとり、なのかも知れない。ブンガクでもそうでなくても、論壇ジャーナリズム系の界隈においても、正面から名前を挙げられることは、まずもうないのだろう。

 かつて一度だけ、この人からハガキを頂戴したことがある。確か『諸君!』か『正論』に書いた原稿についての感想というか、お褒めと共感のことばが走り書きで綴られていたと記憶する。それまで面識は全くないし、恥ずかしながらこちとらとてお名前くらいは存じていてもどういう仕事を具体的にしてきた人なのかも、実は漠然としか理解していなかった。だから、なんだか知らない年上のエラい人からほめられた(らしい)、ということだけが記憶に残っていて、確かまともにお返事も何も出さずじまいだったはずだ。失礼なことである。向こうの世間に行った時に改めてお詫びしてご挨拶せねば、と思っている。*1

 いわゆる保守系のカテゴリに入れられるような人、ではあったはずだが、論客としてどうこう論われることはあまりなかった印象が強い。殊に、80年代的なメディア状況の中、「思想」や「批評」がある意味それまでと違う「商品」として、その書き手などもひっくるめての「キャラ」ごかしに変形させられてゆくことが当たり前になっていった過程では、たとえばこの佐伯彰一のような書き手は後景化されてゆくのが当時の風潮だったのだろう。自分の狭い範囲の見聞や記憶の間尺においても、どうやらそんな感じなのだ。

 けれども、この人の、そしてこの人に象徴されるようなある種のオールド・スクール、「戦後」で「昭和後期」で「高度成長期」におそらく最も明確にその姿を立ち現わすことになった人文書的な読書空間に最適化した言説生産をしてきた人たちの立ち位置や現実に対する距離の置き方、殊にその「文学/文芸」に対する見方や認識のありようは、それから30年あまり、そのさらに先の事態を眼前のものにしている昨今のような情況になっているからこそ、当時とはまたひと味違う凄みと洞察力を兼ね備えたテキストとして眼前に立ち上がってきたりするのだと思っている。*2

 

 

*1:そういう風に現世でいろんな行きがかりでご無礼した人がたというのは、何も年上先輩に限ったことでもなく、同年代や後輩にでも思い返せばたくさんいらっしゃるわけで。でもそういうのも順送り、自分があの世へ行った時にもう一度、ちゃんと相まみえて挨拶しておこうと、未だこの世にある今は心に留めている。

*2:他にどんな人がたが、というのはまたおいおい、触れてゆく機会もあるだろうけれども、たとえば堀切直人高橋康雄福田定良といった固有名詞に何か感じるものがある向きは、おそらく未だあいみまえることのない知己だと信じている。