現場・当事者という「おはなし」

 みなさんも見たままを一応書けるという意識をお持ちだと思います。しかし、本当にそうなのだろうか。見たままを書くということはそんなにたやすいことなのだろうか。


 1959年9月26日。忘れもしません。このときに伊勢湾台風という超弩級の台風が東海地方を襲いました。私は当時、津支局(現総局)におりました。5千人も死んでいます。発生直後に支局から現地へ入りました。


 見渡す限り死体です。泥海の中に死体がプカプカ浮いているんです。何百という死体が腐敗して、パンパンにふくれあがって、皮膚が紫色や青色に変色して、しかもテラテラに光っているというものすごい光景でした。真っ昼間から夜にかけて、切れ残った堤防の上で何十カ所と火が燃えている。


 廃材で肉親の死体を焼いているわけです。度肝を抜かれました。何も書けやしません。立ちすくみました。それでも書かなきゃいかん。がんがんデスクから原稿を送れと言ってくる。


 それで私はどうやったかというと、見たままを書くつもりで、一生懸命、見たままを書いたんです。死体が浮いている、牛や馬も膨れあがって浮いている、水面下に家の土台の跡やら、ガッチャンポンプの影が見える。そんなような話。


 で、死体がいたるところで焼かれている、堤防の上にはヘビの固まりがある、なんていうような話をさかんに書いたわけです。


 ひたすら私は見たままを書こうと思った。一生懸命、見たままを書くことが真実の報道だと思っていました。そして毎日毎日、その泥海を見て泣きながら―本当に恥ずかしいですが、涙で文字が書けないんです。そんな状態の中でこの事実を克明に報告することが記者の任務だというふうに思っていました。


 これだけの大災害です。土地を造成した建設省農水省も、県などの自治体も、それから企業も、鎌倉時代以来の大災害である、不可抗力の天災であると大宣伝しました。私も被害のあまりの大きさでたまげちゃったから、これはもう不可抗力だと、そう思いました。そんなふうな調子でいくつも原稿を書きました。


 それから十数日たったんですね。当時、東京社会部で最も優秀な書き手と言われて、最後は編集委員でおやめになった疋田桂一郎さんという方がいらっしゃいます。この疋田桂一郎さんが当時、東京社会部の遊軍記者をしておられて、ルポを書くため現場にやって来られました。*1


 もう、災害から2週間もたっているんですよ。どんな取材をなさるのだろうと思って、私たちは見ていた。音に聞く東京社会部の書き手だということで、本当に、かたずをのんで見ていた。


 我々は毎日、泥水につかって取材してるんです。水にぬらさないよう、頭に無線機を乗せて、原稿用紙を乗せて。ところが、あの人はボートに乗って、ぐるっと被災地を回って来られただけです。と私には見えた。腹が立ちましてね。東京なんていうのは結構なもんだな、と。こんな優雅な取材で済ましてしまうのか、なんて思っていました。変なものを書いたら笑ってやろうなんて、思い上がった気持ちでおりました。


 10月9日です。これも忘れません。朝刊社会面をつぶして、疋田ルポが載りました。見た瞬間、思わずうなっちゃったのです。声が出ないんですね、衝撃で。


 不可抗力だと我々は書きなぐっていた。大企業、MやDなんかの企業も、自治体も、農水省建設省も、そう大合唱をしていた。だから5千人も死んだのだ、などと言っている。ところが疋田さんのそのルポルタージュは『機械は残った』と書いている。


 つまり、工場全体の敷地が初めから2メートル以上もかさ上げされていた。その中でダイナモやなんかの一番重要なところはさらにかさ上げされていた。一方、工場周辺にいっぱいある社宅、これは一般社員用です。間違っても高級幹部のじゃありません。その社宅は大波に襲われ、大勢の人が死んだ。


 そして会社の幹部、出先の工場ですけれども、は全部、名古屋の東郊、名古屋をご存じの方は分かるでしょうが、千種区という最高の住宅地域に住んでいた。だから、水なんかにつからないし、一人として死んだり、けがしたりしていない。死んだのは一般社員、工員だけであった。


 しかも、彼らの社宅とか市営住宅は水にのまれて何千人と死んだのに、工場は初めからかさ上げがしてあった。水が押し寄せても、その水は全部、社宅の方へ流れていくんです。なだれをうって。しかし、工場はすぐに水が引いて、あっという間に復旧した。疋田さんのルポはそのような内容のものでした。


 お恥ずかしいけれども、私は毎日ボートをこいで泥海での取材を重ねていました。スクリューのあるボートはダメなんです。ごみが引っかかって走れない。だから、何キロも何キロも手こぎのボートで行くわけです。そして、屋根の上から食料をくれ、着物をくれと言って合掌している人たちなんかを見てきた。本当につらい場面を見ていました。工場の機械が残っているのも見ているんですよ。


 だけれども、その目を持たない私には、高級社員が全部、千種区にいることも、一般社員や市営住宅の低所得の人たちがみんな低地に置かれていたことも、工場が生き残って、最も大事な機械はさらに生きのびていること、これも見ていた。そばを通っているんですから。


 しかし、それが見えていても見えなかった。


 つらくて、つらくて。こんなにつらい抜かれ記事の記憶はありません。ちょうどみなさんと同じ入社2年目、月こそずれていますけれども、同じときです。県庁を担当させてもらって、いっぱしの書き手のつもりで大きな顔をしていて、前線へ飛んで、このざまです。


 見たままを書くということが、いかに難しいか。知識もなく、仮説も持たず、方法論もなしに見たって、見えやしません。


 しかも、私が許せないほど犯罪的な記者であったのは、あの地帯が海抜マイナスあるいはゼロメートルであることを知らなかった。おそらく、そこに住んでいた住民も知らなかった(※註:伊勢湾台風当時です)。新聞記者が知らないで書かないんだから、わかるわけがない。


 だから、いきなり夕食後の不意打ちで5千人が死んでいったのです。非常に露骨な言葉、どぎつい言葉で申せば、新聞記者の無知と不勉強は犯罪だと思います。私はそれを骨身にしみて教えられました。(以下略)

 いい「おはなし」である。教訓としても説話としても、そしてごく普通の意味での体験談としても。そして、「取材」や「調査」「フィールド・ワーク」などに関する方法意識を問う、あるいは自省するための非常に良い叩き台としても、とりあえずのところは。

 この話をしたという藪下某という御仁もまた、おそらく「良い記者」だったのだと思う、その時代、彼が生きて記者をしていた情報環境と言語空間においては少なくとも。ただ、そのことと、そのような彼が語ったこのような「おはなし」に含まれている教訓なり伝えたかったことなりが、いまどきの情報環境と言語空間においてそのまますんなり伝わるかどうか、ということとはまた全く別もの、ではあるらしい。

 「見たままを書く」ことの難しさ、を彼は説いている。「現場」に密着してその場に臨んでいる自分自身に誠実に、懸命に眼前で起こっていること見ようとしても、しかしそれらの現実の背後にあるより大きな何ものか、背景や文脈その他の「構造」を理解していないままいくら懸命に眼前の事実だけを見たところで、ことの本質、つまりこの場合は新聞というメディアが伝えるべき「事実」というのは見えないものなのだ――ざっとまあ、そのような「教訓」が伝えたかったことの概略だろうし、また概ねそのような読まれ方をするようなものではあるだろう。

 間違ってはいない。太字で強調した「見たままを書くということが、いかに難しいか。知識もなく、仮説も持たず、方法論もなしに見たって、見栄やしません」という部分の、それ自体全くその通りと言わざるを得ない「正しさ」の間尺においては。

 ただ、その「正しさ」もまた文脈によって、時代によって、情報環境とそこに宿る言語空間との関係によって、また別の内実をうっかりとはらんでゆくものだし、そして何よりそのような内実自体をその「正しさ」任せに素直にまっすぐに受けとってしまうようなその他おおぜいの「善意」にとって、それはずっと「うっかり」のまま気づかれないものだったりもするらしい。

 背景となる知識や情報、それらの上に成り立つだろう「仮説」(この言い方がいいかどうかは留保したいが)などがおのれの裡にないことには、同じ現場に同じ当事者として臨んでいても、そこで感知され把握認識される眼前の事実は全く異なる意味を持つようになる、それは確かにそうだ。一般論としての「正しさ」としては全くその通り。事実と文脈、情報と背景は常に関係性の裡に意味を宿してゆくものではある。

 けれども、ここで示されている「おはなし」の間尺に置いてみれば、その「正しさ」にもまた少し別の問いは晶出されてくる。

 たとえば、新聞報道で伝えられるべき「事実」、記事として読者の側に届けられる内容として、ここで示されている疋田桂一郎の書いたような社会面記事が本当に望ましいものなのだろうか、ということもそのひとつ。いや、それは確かにナマの事実、眼前の見聞に従った描写ばかり届けられても困るのは当然だし、だからどこかで「おはなし」として丸めた記事としてしか「新聞報道の事実」はあり得ないというのも言わずもがなではあるにせよ、それが昨今のような情報環境において果して本当に新聞報道に求められる「事実」なんだろうか、という問いもまた当然、留保されてきて然るべきだろう。むしろ、ナマの事実、眼前の見聞に従った描写の方こそ、いまどきの情報環境、読み手のリテラシーのありようがメディアとの関係においてある意味違う水準に整序されるようになっている状況において、求められる「報道」の事実になっているところはないだろうか。

 かつては新聞記者という立場、それなりの知識を構造化した主体という意味での信頼されるインテリ・知識人的な立ち位置から、世間一般その他おおぜいの「マス」に対してよかれと思われる「おはなし」を紡ぎ出す仕掛けは確かに「新聞報道」に求められていただろうし、またそれなりの社会的な有用性も担保されていただろう。そのような新聞記者像自体、戦後の過程で前景化してきたものかも知れないということも含めて、それは「戦後」の情報環境と言語空間において、本邦社会に共有されるべき〈リアル〉を編制してゆくために必要な装置の一部になってはいたのだろう。その歴史的、社会的な意義や役割については、自分とて疑うものではない。

 しかし、そのような特権的な「おはなし」屋としての、〈いま・ここ〉に起こっていることについての世間一般その他おおぜいにとって必要だと思われるような理解を助けてゆくような話法に従った情報提供業者としての「新聞記者」というのは、もはや必要ではなくなっているかも知れない。少なくとも、かつてのような意味での特権性は自明に保証されるものではなくなっているらしい、それくらいの自省と留保くらいはしておいてもらわないことには、いまどきわざわざ新聞を読んでそこに掲載されている情報を摂取することの意味などないと言っていいだろう。

 ここで期せずして言われている「仮説」の部分、これが個々の記者の資質や勉強の度合いによるものでなく、そしてそのような意味での「思想」として主体化・内在化されたようなものでもなくなっていったらしい過程、それによって固定化され定型化され、そして「そういうもの」として自明化し硬直化していった経緯こそが、省みられて言葉にされるべき「歴史」になっているはずではある。

 ことは新聞報道と新聞記者の関係についてだけではないこと、言うまでもない。

*2

*1:疋田桂一郎は近年、ゼロ年代後半あたりからまた神話化されてきているらしく、本多勝一のつけた提灯あたりから新聞労連で「疋田桂一郎賞」まで設けられるようになっているあたり、「天声人語」伝説の淵源なども含めて要考察のお題、ではある。

新聞記者 疋田桂一郎とその仕事 (朝日選書 833)

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  • 発売日: 2007/11/09
  • メディア: 単行本
疋田桂一郎という新聞記者がいた

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疋田桂一郎の天声人語 (朝日文庫)

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*2:togetterにもまとめられていた。togetter.com ぶらさがっているコメント自体がもういろいろと興味深いというか、「見る」こともできないその他おおぜいな意識の群れは当然「読む」こともできない、ということの見事な証明になっているのがまた……(´-ω-`)