80年代的「冷笑」と結婚生活

 自分の配偶者が、差別団体の会員になっちゃったよ! とかいう人はどうやってその状況に耐えてるだろうか……正義はどっちもどっち、正義ほど恐ろしいものは無いとか言う夫でも許せないのに……


 結婚する前に、まじ、政治的信念とか、善悪に関する観念とかに不一致が無いか確認するべきです。確認しても、変わっちゃう可能性もあるけど。でも、信念が合うか合わないかってほんと大きな問題です。私は、結婚7年後に夫の本質を知って絶賛後悔中です。


 結婚すると、まぁ、愛は当然逓減しますわ。でも、お互いの信念や理想への尊敬が保たれていれば良い関係は続けられると思うんですが。やはり信念や理想が共有されてないと良い関係は長続きしない。尊敬が愛に先立っていないと結構つらいと思いますよ、実感として。


 サン=テグジュペリの言うとおり、お互い見つめ合っていられる時間なんて短いです。後は、お互いが同じ方向を一緒に見ていられるかだと思う。だから、二人の間の愛よりも、政治的信念や理想、他者へのまなざし方がはるかに重要な夫婦のかすがいなんだと思います。

 「冷笑」というもの言いが、ある種の相対主義的デタッチメントを実装した身ぶりに対して貼られるレッテルになってきたのは、Twitter世間でもここ数年くらいのことだったろうか。「浮き世を茶にする」態度に対する違和感や不愉快を抱くような、ある意味マジメでフツーで世間一般その他おおぜい的な「正義感」に根ざした、その意味ではあのポリコレなどとも通じる気分が背後に漂う使われ方をしていることも含めて。

 ただ、それをさらに「80年代的しぐさ」とくっきりさせているあたり、おそらくそれなりの世代なのだろう。まただからこそ、それら「冷笑」が結婚生活と結びつけられ、生活を共にする相手についての違和感や不愉快と直結するような批評眼を宿してしまっているのだろうな、と。何にせよ、いろいろとしんどいこっちゃなぁ、と。

 こういう「同志」的なつながりが、生身の関係、馴れ合いやなしくずしなども含めた言葉本来の意味での「日常」「暮らし」「生活」の水準でも前景化され、意識の前面に浮び上がってくるような人間関係をあたりまえのように思う結婚生活というのは、かつての社会運動家や教育者、あるいは信仰や信心をもとにつながる人がたなどにはあっただろうし、またそういうのを理想としてしまうことも含めて人の世の一定の現実でもあったんだろうな、と。「話があう」というのは昨今では「趣味が同じ」とかそういう翻訳のされ方をしているようだが、例の「鉄道模型を捨ててから夫の様子がおかしい」のテンプレのように、別に結婚や同棲などでなくとも、人と人が生活空間を共にしてゆく際に最も優先されるのが、そのような「趣味」とくくられるような領域についての「理解」(あるいは「寛容」)になっているらしいことは、「ふたり口は喰える」に代表されていたような「実利」ベースでの共同生活という部分がすでにもう敢えて意識して調整する必要もないほどに、「生きる」ということについての理解から下部構造が自明化し、意識されなくなっていることのあらわれのひとつかもしれない。

 あ、ちなみに「鉄道模型を捨ててから夫の様子がおかしい」のテンプレというのは、こんなの。

802: おさかなくわえた名無しさん 2006/03/10(金) 17:32:24


コレクションについての話がありましたけど、私は夫のコレクションを捨ててしまって後悔した立場でした。


鉄道模型でしたけど。


かなり古い模型がまさに大量(線路も敷いてて一部屋使っていた)という感じでした。


結婚2年目ぐらいから「こんなにあるんだから売り払ってよ」と夫に言い続けたのですが、毎回全然行動してくれずに言葉を濁す夫にキレてしまい、留守中に業者を呼んで引き取ってもらえるものは引き取ってもらいました。


帰ってきた夫は「売り払ったお金は好きにしていい」「今まで迷惑かけててごめん」と謝ってくれました。


残っていた模型も全部処分してくれたのですごく嬉しかったです。


でもその後夫は蔵書をはじめ自分のもの全てを捨て始めてしまいました。


会社で着るスーツとワイシャツや下着以外は服すらまともに持たなくなり、今では夫のものは全部含めても衣装ケース二つに納まるだけになってしまって…


あまりにも行きすぎていて心配になり色々なものを買っていいと言うのですが、夫は服などの消耗品以外絶対に買わなくなってしまい、かえって私が苦しくなってしまいました。


これだけ夫のものがないと夫がふらっといなくなってしまいそうですごく恐いのです。


こういう場合ってどうしたらいいんでしょう。