70年代の「ぴあ」は、そんな風にマニアックな雑誌でした。だから「2001年宇宙の旅」が「もあテン」(再上映を求める映画のアンケート)で常にトップでした。ピンク映画を青春映画として楽しむことも「ぴあ」が教えてくれたし、もちろん自主映画ファンの交流の場でもありました。
— 町山智浩 (@TomoMachi) 2019年7月29日
PFF(ぴあフィルムフェスティバル)は自主映画コンテストで、海外の映画作家のアマチュア時代の作品も上映しました。スピルバーグの「アンブリン」、ジョージ・ルーカスの「THX1138電子的迷宮」、ジョン・カーペンターの「ダークスター」もPFFで観ました。
PFFでは大森一樹や石井聰亙、手塚眞監督がヒーローで、園子温監督もここから世に出ました。しかし、そうした映画演劇マニアのための「ぴあ」は85年までで終わり、チケットビジネスと会社拡大で「ぴあ」は「濃い」読者を切り捨てて、一般向けの「こだわりのない」雑誌に脱皮しました。
「ぴあ」の毎年一回読者が選ぶ年間映画ランキング「ぴあテン」では、いつも映画ファンを熱くさせる映画が選ばれていました。しかし上記のように一般化した86年「トップガン」が一位を取りました。「トップガン」はその年の興行トップの映画でした。その時、カルチャーとしての「ぴあ」は終わりました。
それ以降の「ぴあテン」は興行成績ベストテンとランキングする作品がほとんど変わらなくなりました。
「雑誌」が「文化」をこさえてゆくという夢、がある程度まで現実のものとしてあり得た時代と情報環境。サブカルチュアの「サブ」が言葉本来の意味で自立性を確保できていた時代。
カルチャーは時代とともに滅びていく。カルチャーとしての「ぴあ」は72年から85年の13年間しか続かなかった。カルチャーとしての宝島は73年から92年の19年間だった。
*1:こういう町山自身がその後、どういう経緯、紆余曲折を経て昨今のような在米出羽守ポジに落ち着くようになったのか、ということはまた別の問いではあるのだが、しかしそれもまた、このあたりの70年代~80年代にかけての同時代情況についてのまっとうな認識との関係でやはり理解しようとしなければならないのだとは思う、いろいろとしんどいことではあれど。