「左翼/リベラル」の現代史・雑感

 「パヨク」(このもの言い好かんがとりあえず)に「乗っ取られた」(これも以下略)というのは、歴史or時代的文脈とりまざっくり無視した上で言や、戦後の大学やら研究所、新聞や出版その他メディアの現場なども軒並みそんなもん、だったんだとはおも。

 「戦後」の情報環境における文字/活字ベースの「知性」や「教養」のありようと根深くからんだものでもあったわけで、な。もちろん「戦前」からの連続/不連続の位相も含めてのことなのは言うまでもないんだが。

 そういう脈絡をざっくりとでもある高度&距離で俯瞰してみせた上での「思想/精神史」的な文脈をまず輪郭確かにしたところからしか、〈いま・ここ〉と「歴史」のつながり具合は穏当に復権でけんのだろう、とかなり確信しとるここ10年あまり。

 その上での言説や言表の類が、背景文脈その他考慮&留保もでけんままひとくくりに「ネトウヨ」だの何だので片づけられる風潮自体、言葉本来の意味での「反「知性」or「教養」」(主義でも何でもない)的な頽廃or怠惰のあらわれなんだとなんでわからんのか。

 そこらの世間一般その他おおぜいの人がたならばともかく、自他共にそれなりの知性or教養備えたということになってきたような界隈こそが、そういう「反「知性」or「教養」」的頽廃or怠惰のあらわれを体現しとるという事態が「戦後」の「左翼/リベラル」系思想の「現代史」と関わっていないはずがない。

 それらと対置される(それが妥当かどうかは留保する)「右翼/保守」界隈はそれらの「現代史」からはひとまず疎外されたまんまの時期が長かったわけで。少なくとも「左翼/リベラル」系思想のそれら「現代史」との骨がらみの当事者性と比べれば。良くも悪くも。

 もっとあからさまに言えば、それら「右翼/保守」界隈はそれら「戦後」の「思想」の埒外、少なくとも視野の周縁にしか捕捉されていなかったわけで。そういう視野を自明のものとしていた情報環境&言語空間こそが「戦後」の現実認識のある実体を担保していたわけで。

 フラットで平面的な水準での、それこそかつての、そして今もなお怠惰に生き延びても居るあの「周縁」論の意味あいではなく、それらを取り扱う水準をおのれも含めたところで突き放したところから、立体的で多元的な再構築&現像をやろうとしながらの「周縁」自体の再生の目算。