「観光」で喰う覚悟

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 前から言うとる。「観光」でメシ喰ってく、ってことについての覚悟なりリスクなり、社会としても生活や文化などにしても、一旦そっち行ったらもう後戻りでけんくらいの大きな決断せにゃならんあれこれの問題について、本邦あまりにも無自覚すぎやせんか、と。人文社会系のガクモンなり何なり、そのへんの問題については現状、ほとんど役立たずやないんか、と。

 自分たちの生活や日常を「見世物」としてずっと提供し、それを楽屋含めてまわしてゆく、それが日々の仕事になるということが最前提にならにゃあかんだろ、とりあえずは。

 たとえば、どこでもいい、それこそバリでもプーケットでもパタヤでもどこでも、いずれそういうリゾートと呼ばれるようになっとる土地で生きてゆくために、「観光」とどのようにつきあわざるを得なくなってるのか。その土地で生まれ育ちそこで生きてゆくことを考えた時にどのような選択肢が具体的にあり得て、つまりどんな選択肢しかなくなっているのか、というあたりのことも含めて、たまさか訪れる観光客目線と感覚でなくまごうかたない自分ごととして、自分が日々生きているこの本邦ポンニチの〈いま・ここ〉と紐付けて考えようとすることが、ほんとに穏当にできているのだろうか。

 大文字の能書きやリクツごかしでなく、そのように「観光」という現実に地元の生き方のほとんど全てが規定されるようになる、それが日々の日常の個別具体にどのように関わってくるのか、という問いと、それを身の丈の言葉やもの言いで担保する、できるだけの足場の確保。
 
 現状からものごとを冷静に考える、というのが「現実的」「リアリズム」だとしても、それは考えなしの現状肯定ありきやただの現状追認ってこととは違うはずだわなぁ。

*1:「観光」を冠した学部や学科がそれなりに増えてきていても、そもそも「観光」とはどういう事態を招来するものなのか、といったあたりの考察はあまりされないらしいのは、経営学的な土壌から観光学というものが生まれてきた経緯に規定されとるようなのだが。