「義理」と「人情」

 「非対称」だとすわりが悪いんで、「生きる世間の違い」に根ざした「(選択できない)違い」みたいなもの、だととりあえず解釈するようにはしとる、自分的には。

 そういう存在(≒(言葉本来の)「他者」)が「この世」にゃ同じように生きとる、でも生きる世間が違う、という認識。そういう状態をどうこうしよう、とかはまず思わないし、思ったとしたらそれは「発心」の類、信仰の水準に足踏み入れるんだろうな、と。

 ただ、どうこうしよう、こんな自分が、とは思わないけど、でもたまたま身の丈で眼前に対峙することになったら、自分のできることをする、というスジの通し方。それを通しておくことは「実利」にもつながる、という認識も含めて。

 「情けは人のためならず」とか、あるいは軒付けや押し売りの類に「買ってやる」「施しをする」とか、そういう「スジの通し方」の「そういうもの」感から決して外れない習い性のありよう。

 「情け」「人情」ってのは、そういう「スジの通し方」の「そういうもの」感と共に〈リアル〉だったんだろう、と。自分ごときができる範囲の最大公約数、それによって維持される「公」の領分。それは「大文字」の「政治」的な「公」とはおそらく異なるものだろう、と。

 よく対置されている「義理」ってのは、それに対してもう少し社会的なというか、若干「大文字」に寄せた「公」の水準での「スジの通し方」になってくるんだろう。でもそれも今自分らが考えるような「公」とは違う、自分自身が社会的に≒自分の「世間」で生きてゆく上での広がり、といった意味あいで。
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*1:なんかこのへんなども含めて、読み直し&考え直しながらいろいろと……「 king-biscuit.hatenadiary.jp