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文字表現での「描写」の件、あれこれ流れてきとって興味深いんだが、読み手の脳内映像情報ストックに依拠した「描写」でいいんだ、いちいち細部とか文字で連ねるのかったるくて読めないだろ、的感覚ってのは良し悪し別に「そういうもの」になりつつあるのかも、とはおも、昨今の状況では。
そう考えれば、ラノベ的文体のあのすっ飛ばし具合(圧倒的スカスカ具合でもあるんだが、老害化石脳的にゃ)や、それによって獲得されている(らしい)「速度」感みたいなものも、そのへんと関わっとるのかな、とかいろいろと。あるいは、最近言われ始めているような、「おはなし」が読めなくなっている、あるいは「先の読めない/見えない」筋書きに対する拒否感嫌悪感の蔓延、みたいなものも、もしかしたらそのへんと絡んでのことかもしれん。要検討だけれども。
脳内映像情報(この言い方が的確なのかどうかはともかく)に依拠した「流れ」があらかじめあって、それを要所要所でうまく「流してゆく」ために文字が使われている、といった印象もあるわけで。文字で書かれたテキストは本体ではなくむしろ補助具みたいなもの、とか。文字「だけ」で「描写」する/しなければならない、的な一点集中があたりまえにならざるを得なかったような情報環境じゃなくなっているわけで、だったら「創作」にせよ「描写」にせよありようが違ってくるのも、まあ、わからんでもなく。
逆にそういう視点から、かつての「挿絵」を見直してみると、またいろいろ違う「描写」の過程が見えてくるかも知れん、な。さらには身体表現も含めた広義の「芸能」にとっての「描写」などまで視野に入れたらなおのこと、とか。
*1:文脈が収奪され、それらを考慮しない/できない環境に宿り始めている主体とその表現、というお題を、また別の方向から考えてみること。