「分断」と言い、「格差」と呼ぶ、昨今いまどき〈いま・ここ〉の裡に確実に「ある」と大方が思い、実際に日々感じるようになっているそのような味気ない現実のありよう、についてのさまざまな「小さなことば」の断片たち。
「田舎」ならばマチ、ないしは都市が、「貧乏」ならば金持ち、リッチ、勝ち組が、「高学歴」ならば「低学歴」、ものさしに応じてMARCH、Fラン、底辺、あるいはDQNやウェーイなどまで含めて、いずれそれぞれさまざまなもの言いが〈それ以外〉として想定されているはずで、その〈それ以外〉の側から、または〈それ以外〉を際立たせるために、これらの断片たちは敢えて吐き出されているようにも感じる。
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田舎者と貧乏人を初めて見た話 https://t.co/fBScHw35tM
— かんぶれ(cannedbread) (@_cannedbread) September 15, 2019
例えばこうした「高学歴の世界」にどっぷりと漬かって生きてきて、それが当たり前だと思っていた人が「低学歴の世界」の人々を知りカルチャーショックを受ける……というのはおかしくない話です。決してその人が悪人なわけではない。
「高学歴の世界」に生きる人々は、決して冷淡でもなければ無知でもない(むしろ半数以上が穏和で心優しく知識に富む人たちばかり)。ただ同じ日本に住む「低学歴の世界」に生きる人々というものを、アフリカの難民や欧米のストリートチルドレン以上に「想像できない」。そこに大きな断絶がある。
「高学歴の世界」の人々は、アフリカの難民や欧米のストリートチルドレンについては、学校教育や家庭の蔵書、テレビのドキュメンタリー、あるいは海外旅行などで知り、考える機会がある。でも同じ日本の「低学歴の人々」については知りうる機会が全く無い。知る機会が無いということは想像もできない。
大学にいた人たち、言葉には出さないものの電通や博報堂に入るのが人生のゴールみたいな人たちばかりだったので、知識や芸術や文化っていうのは就活のときに切り捨てられる「小数」(fraction)でしかなかったんだよね。
— Masaki Ohashi (@ohashimasaki) February 2, 2019
筆者は新宿と渋谷で生まれ育った都会人と自称しているが、日本橋生まれの小林信彦は原宿に引っ越した時「住所を書くのが恥ずかしかった」と言っているから都会内部にも無限にヒエラルキーがあるのだなあという感想しか湧かぬ。 https://t.co/civxl2HMiN
— 𝙏𝙖𝙠𝙖𝙜𝙞 𝙎𝙤𝙩𝙖 (@TakagiSota) September 16, 2019
生まれも育ちも浅草千束の老母は、神楽坂に来て「ああこんな山(秩父連山が見えた)が見えるとこに都落ちした」って嘆いたってw https://t.co/r5e14p5f6B
— 解放迷@地鉄良かったなあオジサン (@gobanyak) September 16, 2019
また田舎者低学歴のツイートが流れてきてるが、何度か書いたように、田舎には「田舎のエートス」と呼ぶべきものがあるのよ。どっちが上とか下って話じゃない。もし高学歴都会人が田舎に下放されたら、その人は田舎で快適に生きるために田舎のエートスを身につけるか、もしくは神経症を病むしかない。
小学中学の同級生「だけ」と、一生つるまなきゃいけないと考えたら、都会とは根本的に生活様式が変わる必要があるってのは、都会人にも想像できるんじゃまいか。
田舎者が書籍を一切買わずに車の改造するのも、仕事帰りにパチンコ行くのも、高校卒業の直後に彼女をうっかり妊娠させるのも、高学歴都会人からすれば野蛮なサルにしか見えないだろうが、田舎者が田舎でこの先生きのこって快適に過ごし親族を再生産するための、精緻な効率的なタクティクスなのよ。
〈それ以外〉を際立たせることの必要を、皆概ねどこかで感じている、とりあえずそのことだけはどうやら確かな同時代感覚らしい。現実の自分がどのような場所にいて、どのように生きていようが、想像力としての「現実」「世間」の輪郭をひとまず確かなものにしてゆこうとする時に、どうしてもそのような〈それ以外〉の存在を、ある形象として想定しておかねばならなくなる。そのようなココロの働き、意識のからくりの上に、それは時に「田舎」になり「貧乏」になり「高学歴」にもなるものらしい。
問題は、それら〈それ以外〉の形象、表象、もの言いの類が、さてどのようなことばともの言いとで語られようとしているものか、その向こう側にどのような「現実」「世間」の手ざわりを模索しようとしているのか、例によってのことだが、自分などの問いはそのあたりのことになってゆく。