「なんだ古谷か」で済むコラムですけど、麻生政権頃の「ネトウヨの言う事はだいたいおかしい」時代から、「リベラルと名の付く連中はだいたいおかしい」に至るまで思えば遠くに来たもんだ感が。https://t.co/ce1uk29Uai
— bibibi (@burubur56030897) 2019年9月21日
古谷ってぇとあれかい、ツネヒラかい、とおもたら違った。こっちだ。「パブリック・ソシオロジー」のねえちゃんだ。
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まあ、近年「社会学」の看板を毀損しまくっとるアレな界隈のおひとりということで。
にしても、まあ、どうしてこういう人がたが揃いも揃って「リベラル」を標榜しとらすんだろう、というのは素朴にギモンではある。てか、ウソでもそれなりの学問的背景なり何なりをほのめかしてものを言うたり書いたりしとらす以上、その「リベラル」の内実についてもまたそれなりの見識があってのことだろうと思うのが普通なわけで、そのつもりでつきあって読んだり耳傾けたりしていると、アレ?これってどういう意味で使うとらすんだろ、となることがお約束で、しかもそうなるまでもがものすごく早くなっておる。とは言え、これは深くものを考えた上で使うとらすもの言いではなく、ただそう言っておけば葵の印籠、魔法の呪文、それこそイオナズン(よう知らんけど)みたいなもんで、とにかくまわりは、ハハーッ、とひれ伏して黙って言うこと書くことを拝聴拝読してくれるものだ、という「実利」一発の理解の上にあたり構わず振り回しとらすことだけは、とりあえずいやというほどビンビン響いてくるという次第。
そういう「リベラル」、という現在についてまず、ある程度の共通理解を設定しておかないことには、まずもってこういう手合いがどうしていけしゃあしゃあとオピニオンなり言論なりの舞台にまかり通るようになっておるのか、というあたりのことがまるで問題化されてこないというのが、昨今の本邦日本語環境での「ものを考えようとすること」の第一障害になっているわけで。
麻生政権のあたり「知っとるかおまえ小沢一郎や土井たか子は実は朝鮮人なんだぞ」みたいなこと素で言う連中が平気でネトウヨの重鎮面していましたからね。さすがにそんなパーは殆ど消えたと思えば、今度は高学歴な筈のリベラルから「福島では奇形児がたくさん生まれている」なんて妄言がだな。
まあ、普通に常識ある市井の亜インテリが他称ネトウヨと呼ばれるうちに「もう俺らネトウヨでいいやあ」って開き直った過程があるように思いますけど、それにしてもネトウヨとリベラルって対等の概念じゃないよね。幾ら何でもリベラルという言葉の価値が地に落ちすぎ。
思えばみんな大好き、あの「ネトウヨ」というのも、リベラルがそういう「リベラル」として使い回されるようになっていった過程に併走しながら、いつの間にやら普通に使われる語彙になっていった気がする。ということはつまり、あれだ、「ネトウヨ」を好んで使いたがるような人がたというのも、リベラルを「リベラル」としてイオナズン扱いするような、言葉やもの言いをそういう表層の「実利」のコピーライティングとしてしかとらえていないような意識にとっての、同じように手にあった裏イオナズン、問答無用に良くないもの、否定していいもの、同じ土俵で言葉を交わして何らかの理解に到達するなど考えられないものと決めつけるために使われる呪文に過ぎない、ってことなんだろうな、と。
リベラルってはさあ、「知的で穏健でユーモアもわかり、さらに何より大事なポイントとして寛容」ぐらいのブランドイメージがあった筈なんですよ。それが今じゃ「馬鹿ばっかで暴力的でシャレが通じず、そして何よりも不寛容」って本当に救いがない。いや言いかないけど紛れもなくそうだから困る。
まずは「自由主義」であり、その前提には「個人」があり、つまりそのように「個人」ベースの「自由」というやつに何より価値を置いて、それを大事に思う、そういう思考の習い性を自分のものにしているのが、言葉本来の意味でのリベラルだと思っていたのだが、そういう意味の内実を伴った記号ではすでになく、だからここで言われているような「知的で穏健でユーモアもわかり」かつ「寛容」といった生身の存在に伴う属性なども、実はなにももう紐付けられていないことになる。
紐付けられていないのだから、その「リベラル」という呪文の向こう側にどんな生身がうずくまっていようと構わないようなものだが、しかし、世の中不思議なもんで、言葉と紐付いていないはずなのに、その「リベラル」の向こう側にはどうやら昨今、まるで仕込んだかのようにきれいに横並び、均質な行動や反応を見せる個体が潮だまりのフナムシのように群れているものらしい。このへんの謎、言葉やもの言いと生身との関係が少し前までのような意味ではほぼ切れてしまっているらしいにも関わらず、でも、それらとはまた別の脈絡で紐付けられてしまっている一定の共通項を持つ、しかしご当人がたはそのことについて無意識、かつ無自覚らしい生身のたたずまいがそこにはある、という不思議については、もう少しゆっくり言葉にして考える素材にしてゆかねばならないのだろう、と割と本気で思う。