今日はくろべえの命日、一周忌(´ω`)
1年前と同じようなきれいな秋晴れ、きりっとした空気。
king-biscuit.hatenablog.com
夕方、もう瞳孔も開き気味でだいぶ茫洋としとったので、最期に外を見せてやろうとて抱えて、ベランダのところの敷居に頭もたせかけて横たえ、添い寝した。しばらくじっと外の景色を眺めて、空気や匂いなんかも感じていた様子だったけれども、そのあとしばらくして腕の中で息を引き取った。
一度、ふっと息が止まったので、くろべえ! と揺すぶりながら声かけたら、あ、呼ばれた? って感じで一度だけこの世に戻ってきたけれども、次に息をしたらそれが最期だった。その人なり生きものなりが生きてこの世にあった頃のことを具体的に個別に「知っている」人がたがその記憶をよすがに「思い出す」こと、が供養になるという感覚、本邦同胞の間にまだどれくらい確かなものとしてあるものなのだろう。
盆の行事や儀礼など典型的だろうが、そういう「思い出す」ための仕掛けや装置の類がカタチとして残っていることと、それによってかつて想起されていた記憶のありようがどんなものであったのか、ということとは別の問いだったりするんだろうな、とかねがね。
古い民俗としてのそれらの記述や記録を見るたび、そういう「カタチとしてあったこと」を介してどんな記憶や感覚がその場、そのムラなり地域なりに甦っていたものだろうな、と。もちろん個々の人の裡にというのも含めて、でもそれもまた「公」のものとしての意味もそれ以上に。
個別に具体的な記憶を抱いている人がたがこの世を去る、概ねそのあたりの時期が「先祖」に組み込まれて「成仏」することなんだろうな、と勝手に、それこそ民俗学やら何やらの教科書なんかとはひとまず別の確かさで思うようにはなっとった、オヤジが羽田で突然死した頃から。