オウムの事件が怖くて怖くて、あんまり怖くてちゃんと見なかったから。
— 佐川・抜け首・なん (@nankuru28) 2019年10月20日
オウムの影響は労働環境に飛んだと私は思ってるよ。
オウムが経営してたお弁当屋さんにパソコンショップの利益率!人件費削れば儲かる、洗脳したらただで働くってのばかり、広まったと思ってるよ。
昔ね。子供らの通ってた公立小学校に元オウムの子供たちが転校してくるかもって話があってね。心ある保護者の方々が立ち上がって「学校に元オウムの子供たちが転校してくるのに反対の署名をしてくれ」ってのが来たの。多分、断ったの私ぐらいだったんじゃないかなぁ。サリン事件の後だったからね。
あの頃、オウムとアレフはお断りって、各市町村の役所には「排除」の文言が踊ってたよねぇ。今でも残ってるところ、あるんじゃない?ちゃんとしてる人たちは、排除を当然とするよなぁっても思ったけど。小学生はさ「選べてない」んだよなぁってさ。
「自分は、受け入れられなかった。罪深い人々、こんな街など国など破壊してあげた方が親切でしょ?」ってのが、テロの言い分だったから、そりゃ、ちゃんとしてる人たちは「怖がった」んだよ。当然だよね。だけど「親がオウムを選んだ子に、他の選択肢を見せてあげなくていいの?」って私は思って。
「もしも、このまま、オウムな思想でテロを企んでも、優しい人がいた街はターゲットから外してくれるんじゃないかしら?逆にいじわるされた街は狙うんじゃない?」ぐらいは思ったよね。だから署名は断ったよ。シンパ?ってなって、そりゃもう、浮きまくりでした(^◇^)
ブラック企業、ブラック労働と呼ばれている、奴隷制度のような、あの働かせ方の雛形は、オウムが作ったと思ってるよ?忠誠と貢献を競わせ、個人の幸福はそこにあると思い込ませ、家族の幸福を否定する、あのやり方はオウムがやってたこととそっくり同じだよ。怖がって排除したのにね、染まってる。
オウムのお店で働いてる人が、給料?そんなことはどうでもいいんです、って答えてるのをニュースで見て、「洗脳、怖い!」とか言ってたのに、ね。「給料上げろ?会社が潰れたらどうするんだ!」って言うもんね。洗脳してるのが国になったら、一発なんだよなーって、私にはどうしても見えちゃう。オウムが武装を始めたのは「迫害に抵抗するため」が最初だったとかさ、「武装がなければ、我々は奴らの好き勝手にされて潰される!」とかさ、ロジックが「オウムにそっくり!」になることが、私にはあるよ。被害者意識を煽って洗脳をより深くする手口、見たことある!気持ちになるもん。
怖いをちゃんと見ないと知らない間に、自分がそっち側に染まる、私はそこが怖くって、自分は何が一番怖いんだろう?をつつきまわさずにいられない癖がある。怖いから排除の前にすることがある。恐怖は、人を動かすにも、洗脳するにも、手っ取り早い手段で、脅迫商売の筆頭もオウムだった。
オウムの人々は、特別に悪い人たちじゃなかったよ。寂しかったりはあったとしても、特殊に特別に悪い人間たちでは、なかったよ。そして、最初は「ネタ扱い」されていたよ。お笑い番組にも出ていたよ。攻撃的な方向に進み出したのは「排除による被害者意識」がきっかけだったはず。
恐怖の扱いは重要。
オウムがやったの、戦前は国がやったんだよね。ちゃんとしてる人こそが、人を虐めるになるまで、そんなに長い道のりは必要ないみたい。
国がやって、オウムがやって、企業がやって、個人にその理屈に対抗する理屈を構築する暇を与えないような。Ω団は洗脳に抵抗するためにも必要だよな。
「染まってしまう」ことへの忌避感。それがどんな根拠に基づいているのかはともかく、何かそういう自分以外の「みんな」がそのように一律にまとまってしまっている、そのように見えること自体が脊髄反射的に拒否すべきものとして感じられること。「自分だけ」が「みんな」と違うらしいこと。それが確かにそうなのかどうかもまた別のことで、その「みんな」と「自分」との間がそんなに確定的に「違う」ものとも思えていない、だからこそなぜそんなにまで「自分だけ」が「違う」と思えてしまうのかについての確信がない。ゆえに、底知れない不安が伴いながら、でも感覚としてキモチとしては拒否感や忌避感が突出して先行してしまうというからくり。
「排除」とかそういう思想系の用語やもの言いがうっかり繰り出されてしまう程度に、当時すでに不用意なまでに内面的になっていたことも悪さしているはず。そしてその「排除」の側に自分もまた確かにいたことを認めているからこそ、それが原因で彼らオウムを過剰化させていったのだ、というある種の自虐的な自己弁護へと横転してゆく。
確かにナイーヴで誠実でもあるからこそ、うっかりと当時の同時代的なココロのあり方、「自分」というたてつけの輪郭が露わになっていて、それが見事にその後数十年を経ての〈いま・ここ〉に未だに生きているという証跡になっている。「ブラック環境」と結びつけての解釈が出てきているのも、そういう意味では必然的で、かつてのオウムの記憶はその後数十年を経てなお、うまく本来のあるべき〈いま・ここ〉に着地していないのだな、と思わざるを得ない、ここでもまた良くも悪くも。
*1:オウムの記憶、その後も含めて〈いま・ここ〉と地続きになってしまうココロのありよう。同時代のひとつの証言として。