「疑う」ための理由づけ

 前から気になってはいたんだけど、

  ・教科書の図を再現できない
   (促しても「どう描けばいいかわからない」と描かない)


  ・イメージをアウトプットできない
   (概念図等でまとめを作れない)


  ・教科書の本文丸々か単語の羅列の2択
   (「内容を自分なりにまとめて書く」のが苦手)

などが目立つ感じ。


 これを始めるまではずっと「国語力」の問題だと思っていたんだけど、ひょっとして「認知力」の問題なのかも…と思い始めている。それを「答えの丸暗記」でなんとか凌いで来た子達が高校で破綻し始めるんだとすれば、「小中で身につけるべき認知力のリメディアル教育」が必要なのかもしれない。

 「正しい」ことだけが身の回りに充填されている、という自明の感覚。いや、「正しい」とまで言わずとも、「間違いではない」程度でもいいわけだけれども、そもそもそういう「正しくない」「間違っている」という属性のものがそこにある、ということ自体が「あり得ない」し「あってはいけない」事態なのだろうな、と。

 何かに似てるな、と思ったらはい、それ、「ポリコレ」と地続きの認知のありようだわなぁ。ということはあれか、身の回りの現実、そこにある日常というのは常にあたりまえに「ポリティカル」であると、知らないうちにそういう環境で日々呼吸して生きている、と。

 「ポリティカル」なのだから当然、それは操作されたり抑制されたり、あるいは逆に増幅を求められたり、そういう可変性の下にあるという認識なのだろうが、ただ、その「理由」や「背景」については意識しなくてもいい程度にそれは自明化、日常化されているのだろう。提示されている現実をそのままとりあえず鵜呑みにすることが「合理的」であり、何らかの可変性が認められてもそれはそれ、具体的な自分にとっての不利益や不具合が露出してこない限り、それは「そういうもの」として受け入れるのが最も「正しい」ということになる。

 法であったり規則であったり、あるいは慣習法的な意味での「そういうもの」であったり、いずれそれら現実の後ろで支えになっているという約束ごとの上でのこの眼前のありよう、という認識からしてもう稀薄になってるわけで、多少辻褄があわなくなっていようが、前と少し違ってるなと感じようが、その間の「違い」や「齟齬」にいちいち意識を合焦してリソース割いてゆくのは得策でないし、何よりそんなことをしてもその結果は変わらないのだろうし、という見事なまでの諦念の共有感。

 「疑う」というのは、それが「批評」でも「批判」でも「懐疑」でも何でもいいけど、いま見えている現実のその向こう側や裏側、奈落の方なども含めて支えている「仕組み」や「からくり」について想像を働かせる、そのために必要な道具立てというのをいくつか自分の引き出しの中にしまっておいて、いつでも必要な時に使えるようにしておく、それこそが勉強の目的なんだ、といった一連の認識の連なり具合から破綻している気がする。

 「国語力」の問題でなく、認知力の問題かも知れない、というのはおそらくその通りで、その前提に立てばそこでの「ことば」というのは、認知を自分ごとにしてゆくための道具という役割からすでに勝手に解除されているように思う。