「新人類」の「老害」化、のこと、再び。
自分も40代手前で「あ、こりゃこのままいったらえらいことになる」と痛感して勤めを辞めたが、「上の世代」(いわゆる団塊とその直後くらいが主標的)とつきあいながら事態を好転させてゆく目算がまるで持てなかった分、「下の世代」(主に団塊ジュニア界隈)への信頼や期待は無条件に地続きだったかも。
「これまでの世代と違う」という世代的自意識なり自覚みたいなものは、自分たちのみならず「下の世代」に対して当時は無条件に地続きだったんだろう、と。で、それは「戦後」の「若者」信仰の構造とも基本的に地続きだったらしいんだが、それはその頃には当然まだ気づかれることもなかったわけで、な。
辛抱して踏みとどまって「上の世代」とつきあいながらそれぞれの現場を維持し守ってきた同世代はその後、50代になってからいきなり組織なり職場の側からハシゴを外され始めたりしたわけで。と同時に「下の世代」が自分たちと別の内実育てていた(あたりまえだ)ことにも否応なく直面もし始めたわけで。
「上の世代」を「こりゃもうつきあってもムダ」と放り出して切断してきた分、「つきあいながら事態を好転させる」ための知恵や手管を身につけられなかったから、「下の世代」に対しても善意の放任、結果的に「鍛える」関係を構築することをしないままになっとったらしくて、な。
「自分がされて鬱陶しかったりイヤだったことは下にはやらない」というのを割と善意で本気でやってきたら、見事に自分も含めて「未来」のタガをgdgdにしてしもたらしいところ、はあるような気はしとる。
「ちゃんと鬱陶しがられたり疎まれたりする責任」というのを回避できるだけして、結果的にそういう属性が欠落したままトシ喰っておっさんおばはんにうっかりなってきちまったのが「新人類」世代の特徴のひとつだとおも。
生身の生きものだから負荷をかけて「変わる」のはあたりまえなんだが、そのうまく負荷をかける、かけて「関係」と「場」で「育てて」ゆく、というあたりの匙加減やそこに求められる知恵や手管、感覚の類を自分たちに宿してゆく過程から逃げてきたところがあるようにおも。
「親(殊に「父親」」や「先生」「上司」の類にうまくなってゆくこと、がでけんまんまになっとるわけで、な。それは、ざっくり「リーダーシップ」の輪郭が煮崩れていった30年ほど、といったことに置き換えても概ね構わんような気がする。