今で言う「おたく」に相当する人種は、種族名としての「おたく」は当初自称していなかった。少なくとも80年代後期くらいまでは、「種族としての当事者」は自称してなかったが、「二人称としてのおたく」は使われ続けていたとは思う。
— 加藤AZUKI@「忌」怖い話 小祥忌/「弩」怖い話 薄葬 (@azukiglg) 2019年11月25日
これは静岡及び東海、東京の一部ではそう。
また、「侮蔑されるときの呼称」は「根暗」が単体で使われてたと記憶。「おたくという侮蔑語で、種族全体を侮蔑する」というのは、少なくとも当時はあんまり記憶にない。「根暗」はよく言われてた。
なので、「おたくという侮蔑語」は、後の時代に「当時に遡って当てはめられた」のでは、という気がちょっとしてる。我々は今から当時に戻ることはできないから、ここらへんは「当時はそうだった」と言ったモン勝ちなところはある気がする。
僕はドラマガの創刊に立ち会ってるんだけど、ドラマガといえばTheを付けて差し障りのないくらいにはオタク向け雑誌だったと思うけど、これをやってる当時、少なくとも創刊の時点では「オタク」に侮蔑的なニュアンスは当てはめてなかったと思う。これは編集部内観測と即売会観測。
まあ、作り手側の認識ってとこ。「ドラマガをやってるときに宮崎事件が起きて」っていう話はつい最近も触れた気がするから割愛。当時の編集部は(ちょうど校了時で)「オタク弾圧がこれから始まるのでは」っていう戦々恐々とした空気だったのはよく覚えてる。
あと、付け加えると当時は中森明夫は殆ど話題に出なかった。
これは、恐らく「当時、種族として相互におたくと呼び合う人達は、サブカルが視界に入っていなかったから」ではないかなあという気がする。
それと、種族として相互におたくと呼び合う人達特有の「守備範囲以外興味なし」の悪弊。
インターネットがなかった、SNSがなかった、というのは実際バカにならなくて、「興味のある分野の情報」は、「その分野の専門誌(月刊誌)の記者が俯瞰したものが下りてくるのを毎月待つ』しかなかった。だから、「どこかの誰かが言ったこと」に即時性がなかった。
あと、月刊誌を作るのに2カ月掛かってたんですよ。昭和末期、平成初期はwww 印刷組版工程がまだ電子化されてなかったので、「記事依頼」「取材」「記事執筆」「デザイン」「入稿」「初稿」「再校」っていうプロセスが、今よりめっちゃ長時間かかってた。
その結果、月刊誌は今の月刊誌よりさらに情報が古かったと思う。「情報が遅く」「守備範囲のもの以外は興味がなく」「見ず知らずの誰かが放った一言を拾う手段もない」わけだから、「あの当時、○○がこう言っていて、既にそういう認識だった!」と言われても、当時としては【知らんがな!】になる。
ドラゴンマガジンは「おたくが好きそうなもの全部詰め込もうぜ!」というコンセプトで創刊されて、漫画、小説(ラノベ)、フィギュア、特撮、投稿ページ、アイドルなんかも入れてて、最初の一年目はほんとカオスだった。これらに侮蔑的なニュアンスや評価があったら、そういう雑誌はできなかった。
ドラマガの創刊は1988年1月で、僕は前年夏か秋くらいの準備段階から入ってた。宮崎勤事件は1989年8月発覚なので、ドラマガ創刊から2年目のときですね。校了済みの投稿頁の内容を戻して直すくらいには編集部焦ってたなー。
ガメル連邦5年余りの連載のうち、1回だけ「とあるコーナーの行末が2行くらい空いてる回」があって、確かそれが宮崎勤事件の余波。これ以前に、「サブカルサイドから侮蔑される」とかは特になかったし、サブカルとの接点もなかったと記憶。個人的にビックリハウスは読んでたけどw
「げんしけん」(2002-2006/2010-2016)の頃はというと、もう「おたくが復権し始めた頃」じゃないかなあ、とは。電車男(2004)と前後するくらいの頃から、「マーケットとしてのオタ市場」の見直しが進んでたと記憶。
げんしけん初見のときの感想(連載時)は、「斑目以前と以後の違い」とかを感じ(ry 斑目は昭和と平成初期のおたくの典型像だったなあw割と「セケンに対してつっぱる意固地なおたく像」だった気はした。90年代以前のおたく(種族名)は斑目だったかもしれん。
げんしけんと同時期か、前後して少しあとくらいの時期に漫喫でどこぞの大学生とおぼしき若いおたく(種族名)の会話を小耳に挟んだことがあるんだけど、その頃にはおたくは「なるもの」「やるもの」になってて、「あっ、これもう僕が知ってるおたく(種族名)とは概念が違う!」って驚いた。
究極超人あ~るの光画部と、げんしけんの現代視覚研究会は似ていたのかと言われると、やっぱ似てねーな、という気がする。
斑目は鳥坂先輩たり得ないのではないだろか。ポジション的にも性質的にも。まあ、脱線するからこの話は終わり。
で、「おたく(種族名)」の凋落と復権のタイミング。んー、静岡時代も含めてだけど、「侮蔑語としてのおたく」または「おたくを侮蔑語として実用している状態が広がっている」という認識は、やっぱ宮崎勤事件が契機かな、という気はする。
「届かないほど遠くか、どこか別の片隅で侮蔑語として使われていた」としても、「言われていた当人に届いていないから、その言葉で侮蔑されているとはつゆも思わなかったし認識できていない」ってのはあるので……。
「成人または中高校生以上がアニメ、漫画を視聴すること」に対する侮蔑というのは、おたく(種族名で侮蔑語)という言い方ではなく、「根が暗い」「根暗」という言い方で侮蔑されてはいたと思う。ここらへん、70年代末から80年代前期頃。
少なくとも、「非オタから【おたく!】と侮蔑を受ける」という経験は、80年代にはほぼなかったと思う。繰り返しになるけど、「守備範囲に耽溺するおたく(と相互に呼び合う種族)」が、「守備範囲の外にいる人々の侮蔑を知る機会そのものがない」という理由だとは思う。
80年代は「アニパロ」も華やかだった。アニパロ=アニメパロディ、言うなれば二次創作的なものや、公式作品のオマージュ的なもの。パタリロ(アニメ)やうる星やつら(アニメ)では顕著だったけど、これアニメはどっちも80年代。
それこそ、アニパロはおたく(と相互に呼び合う種族)にはウケがよかったし、「どれだけ他の作品のことも知っているか」を試される能力試験でありご褒美だった。そういうコンテンツが地上波で流れる程度には、おたく(と相互に呼び合う種族)は肩身狭くなかったと思う。
でも、テレビでおたく(と呼び合う種族)がポジティブに扱われることはなかったし、そもそも登場しなかったし、今で言うオタ芸人みたいなのは宅八郎くらいしかいなかった気がする。ただ、宅八郎がSPA!に登場するのが1990年からで、宮崎勤事件の後からなんだよね。
「おたく(種族名)」がテレビで紹介されたのは、宮崎勤事件以後(ロリコンという名称に対する一般評価なんかもこれと連動してたと思う)なので、おたく(種族名)が息を潜めた時代はここらあたりからで、そこから90年代に向けて(バブルの最中)にじわじわと市場を拡げていった感じ。
90年代初頭にバブルが弾けて、景気良く金を使う人がいなくなった。で、僕の中の記憶にあるおたく(種族名)復権は、90年代半ばから後半、00年代の頭くらいのどこかじゃないかな、とは。
バブルが弾けて海外旅行もドライブもしなくなって大きな単位の可処分所得が減った。
でも、そんな中でおたく(種族名)は金を使い続けてたwアニメは次々に出て、深夜枠が充実していき、深夜アニメのスポンサーは関連グッズや隣接分野ばかりになっていった。80年代はまだそうでもなかった「放送済み番組のメディア(ビデオやLDや後のDVD)も売れるようになっていき……。
おたく(種族名)は、小さい単位の買い物をたくさんしてたと思う。ここが標的になって、メディア展開やら増刊別冊やらグッズ展開やら全巻セットやらDVDボックスやら愛蔵版やら……のビジネスが。でもおたく(種族名)は付いていったし財布を開き続けてた。
不景気な時代に金を払い続けるというのは、上客だったんだろうなあと思う。新世紀エヴァンゲリオン(TV版)が1995年からで、バブル崩壊後。これは「社会現象」になるほどヒットして、おたく(種族名)は金を落としまくった。
エヴァ芸人がテレビに出るようになるのは、これよりまだもう暫く後。たぶん電車男(2004)より後かな。結局、「景気良く金を払う客がいる分野を持ち上げて囃す」ことは正義なので。その意味でエヴァンゲリオンは「オタク(種族名)復権」に大きく寄与したんじゃないでしょうか。名実ともに。
で、1995年は日本におけるインターネット元年でもあり。個人研究の発表機会とか、不特定多数の見知らぬ誰かとの多対多の論争機会とか、著名人と直接やりとりする機会とか、おたく(種族名)がインターネットにハマらない訳がない。
パソ通から遷移した初期のネットユーザーは、やっぱおたく(種族名)が多かったのは間違いないとは思う。非オタが入ってくるのは、「パソコンが一家に一台になる(90年代末から00年代)」「個人で携帯電話を持つようになる(00年代)」「スマホが一人一台になる(10年代)」とかかなあ。
インターネットの普及とエヴァンゲリオンと「不景気でも金を使う上客」と、そういうものが混ざっていって、テレビでもポジティブにおたく(種族名)が扱われるようになった契機のもうひとつが、電車男(2004)かなーとは。
2ちゃんねらーとおたく(種族名)が同一視されてて、ようやくこの頃に「おたく(種族名)に掛けられた呪いが解呪され始め、おたくがおおっぴらに復権し、人前でおたくを自称しても大きな迫害は受けなくなり始めた」のが00年代中盤くらいから。
コミケ(即売会)文化は、非オタの時間経過とはまったく別の時間が流れている場所なので、面倒臭いから割愛w息を潜めてる間も規模を拡大し続けて、「おたく(種族名)のサンクチュアリ」であり続けたしなー。
で、「おたく(相互に呼び合う二人称を使う種族)」が「オタク(侮蔑される種族名)」になり、おたく(種族名)が息を潜めて身分(性癖)を偽って隠していた時代というのは、恐らく1989-1995(1999))くらいまでの、最短で6年、最長で10年ちょいくらいの期間では、と類推する。
で、「宮崎勤と同じ趣味を持つ奴等」という侮蔑が1989年時点であったとは思うけど、それ以前に「おたく(と相互に呼び合うことを揶揄した侮蔑語としての種族名)」で実際に呼ばれた記憶がない(呼んだ人がいたとしても、届いてない)というのはやはり記憶に照らして間違いないとは思う。
これは地域差と個人差、個人の体験・観測の差があるから、「中森明夫に直接侮蔑された」という人が当時いた可能性は特に否定はしないけど、「当時、おたく(と相互に呼び合っていた種族名)が、【おたく】という二人称に侮蔑の意味を込めて使っていたことはなかったとは思う。
結局の所、中森明夫の言い出した話は「当事者が与り知らない所で言われてた陰口」の話で、そのダメージを中森明夫が言ってた当時におたく(と二人称で呼び合ってた種族)は受けてなかったのでは、という。もう今日ずっとこれしか言ってないけど、改めてまとめ。
ただ「おたく(と二人称で呼び合う種族)」が、「オタク(侮蔑的な意味を持つと当事者が自覚した種族名)」に変わったのがどこの段階だったのか(僕は宮崎事件以降だとは思ってる)というのと、「自虐自嘲で当事者が使い始めた時期」と「ネガティブな自虐自嘲ではなくなった時期」は議論の余地がある。
「ネクラ」と「オタク」は別物では。あみんはネクラと言われたがオタクとは言われなかったし、卓球はタモリにネクラと言われたがオタクと言われたことはついぞなかった。 https://t.co/W7WHAIflOd
— 須賀原洋行 講談社まんが学術文庫カミュ『異邦人』カフカ『変身』発売中 (@tebasakitoriri) 2019年11月25日
根暗と言われてた頃には、「おたく」という種族名で呼ばれたことがなかったので。
今の価値観に照らし合わせても、あみんや卓球は「オタク」じゃないと思います。卓球の歴史や情報にこだわる人は呼ばれるかもしれないけど、当時のタモリは卓球をすること自体を「ネクラ」と言っていて、それは現在でも「オタク」とは呼ばれないでしょうね。
「あみん」が世に出た頃は、まだ種族名としての「おたく」という名称は表出してなかったのでは。あみんは1981年にポプコンに出現、1982年にグランプリで全国デビュー。その頃の僕はまだ静岡でアマチュアでしたけど、「種族名としてのおたく」という言葉はなかったので。「二人称としてのおたく」はあったけど。
そして「根暗」という蔑称は既にありました。「種族名としてのおたく」はもっと後かな、という認識です。誰からもそうと呼ばれなかったのでコミケも無けりゃエロ紙袋もエロ広告も無い、オタ向け店舗なんて本屋のラノベとゲオくらいが限度の沖縄の辺境のド田舎ですら結構な勢いのオタク差別がなされてたんだが pic.twitter.com/AvTTLFbaDF
— 紋九郎 (@hiryu_xxxx) 2019年11月25日それを聞いたのは、1984年だったと記憶してるので、初出から1年以内だったのは確かだ。なので俺のトコに来るまで何人の伝言ゲームだったのかはわからないが、初出年のうちに『漫画ブリッコ』の記事が、マニアサークルの中で一気に膾炙していったのだろうコトは想像できる(・ω・)
— ふりーく北波 (@nami_happy) 2019年11月25日
タモリのオールナイトリスナーなら「ネクラ」というのが自明だったはずの言葉も、『アニメトピア』リスナーだったら「ネグラ」と発音していたはずで。今ほど均質に「我が文化」と「あっちの文化」の互換性って意識してなかったよね。「格差」はなくて「差異」だったな。
例の事件以前…になるのかな?その頃はまだ「おたく」が社会から 危険視されるとか、差別されるとか、そういう社会からの色眼鏡かけた序列にハメこまれるほど、第三者から「気にされてなかった」のよね(・ω・)良くも悪くも。今は「オタク」マーケットに目されたお陰で、自意識も随分変わったけど。