虚構と非虚構のあいだ

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プロレスを楽しめなくなったという?

 いや、むしろ逆ですね。全てをプロレスとして見るようになった、という話です。おそらく「プロレスを楽しめなくなった」のは非常に近年の現象で、今回自分が想定しているのはもっと以前の、60-70年代くらいの話です。

 どうもこの「虚構」「非虚構」という言い方がうまく脳内銀幕に安定的に合焦してくれないような気がしてならないので、「フィクション」と「リアル」、「おはなし」と「現実」、「つくりもの」と「本当らしさ」、くらいのありがちな語彙に、言わば敢えて解像度を落とした変換を仮にしておいた方が取り回しがいいように感じる。なので、そうしてみる。

 とすると、ここで提示されている仮説というのは、「リアル」に感じられることのできるような「おはなし」を「リアル」と感じるのでなく、あらかじめもっとわかりやすく「これは「おはなし」ですよ」という枠組みを明示的に示したものでないと「リアル」に感じられなくなっている、ということになる。*2

 日々の現実、日常のありように紐付けられた「おはなし」でなく、初手から全部つくりもの、どう考えても日々の現実ではないということがあからさまに明らかになっているような「おはなし」こそ〈リアル〉である、という感覚。たとえばファンタジーであれ伝奇であれ、「この世のものではない」というしるしが何らかの形でくっきりと表われているような虚構こそが、より〈リアル〉に切実に感じられる――そういう感覚が多数派になってきた、ということらしい。

 「プロレス」という言い方で示されているのは、「おはなし」を「おはなし」とわかってその上で楽しむ≒〈リアル〉を感受する/できる、ということだろう。そういう「おはなし」とのつきあい方や楽しみ方ができなくなったということか、という質問に対して、問題提起をしているツイ主の側は、いやそうではなくて、むしろ全てを「おはなし」と見るようになったのではないか、とその問いを支点にして切り返してみせている。これは「現実」の喪失、少なくともそのような「現実」に紐付けられたような〈リアル〉を価値としなくなっていって、だからいかにも「おはなし」であるというその「おはなし」の度合いが過剰になったもの、別の言い方をすればそれだけ「現実」と紐付けて受けとる必要がない程度にまで「おはなし」らしさが強調されたようなものでなければ〈リアル〉と感じられなくなっていった、ということになるのだろうか。

 しかも、それは近年のことではなく「60~70年代くらい」を想定しての仮説だとつけ加えている。このへんの年代の想定がどれくらい当たっているものかどうか、いまどき若い衆世代の「歴史」感覚を想定すればいささかあやしい感じもするのだが、とりあえず額面通り受けとるとするなら、高度成長期とその後の時期、言うまでもなく当時、にわかに獲得されていった「豊かさ」まかせに大衆社会状況がそれまでとまた違ったフェイズで深化していった時代ということになる。その時代に、ここで言われているような「おはなし」と「現実」の紐付き具合がそんな方向に変わってゆくようなこと起こっていた、というのがこの問題提起の前提になっている。

 ただ、ここで言われている「60~70年代くらい」というのは、どうも80年代的状況を想定して言われたことなのではないか、という気がする。「豊かさ」任せの価値相対化による、それまでのような〈リアル〉を担保していた情報環境の変貌と、それに伴って顕在化した「全てがあらかじめ設定されていたかに思える」ような、ある意味「演劇的」なフィルターが現実に対してかけられていった時代。全てが「おはなし」として見える、感じるようになった、というここでの仮説は、こうなれば割とすんなり素直に認めることができるように思う。

 そのような状況になると、「おはなし」に「現実」と紐付いたところでの社会批評的な意味あいを込めても、それがうまく受け取られにくくなる、ということなどが、次に「弊害」として言われている。

 このことの弊害はいくつかあって、


① 虚構表象に込められた社会批評的寓意がビルトインされづらい
プロパガンダに弱い
③ 純粋な虚構表象が表現規制を受けやすい
④ 有害な現実が無害な表象のようなフリをして横行しやすい


 上記のうち、①と②、③と④は一見矛盾するように見えるかもしれないが、いずれも「非虚構的な虚構表象」というものを放棄した結果である。


 逆に歴史物のような非虚構性の高い表象の場合でも、「武将の萌えキャラ化」のような形で虚構性が高くなる傾向があるように思う。

 「リアル」な「おはなし」、「現実」と紐付いた虚構、を素直に受け取らなくなったがゆえに、社会批評的な意味を込めた「おはなし」をそのままには〈リアル〉に受け取らないし、だからその分、直截でストレートな主張やプロパガンダに対しては、「おはなし」という枠組みが約束ごとして見えないからそのまま受けとったりもする、と。また、同じことの裏返し的な側面として、「おはなし」純度の高い「つくりもの」がその「おはなし」フィルターを意識しなくなっているゆえに必要以上に〈リアル〉に受け取られてしまうことで、現実の側からうっかり規制を喰らったりしやすくなるし、逆にミもフタもない現実のできごとでさえも「おはなし」のように受け取られてしまうゆえにこれまたうっかり広く流通してしまったりもする、という指摘が示され、これらはどれも「「リアル」「現実」と紐付いた「おはなし」」を「おはなし」として素直に受け取らなくなった(「放棄した」という言い方になっているが)ために起こってきた事態だと指摘する。

 だから、「歴史」を素材にした「おはなし」(「歴史物」という言い方になっている)のような、そもそも「リアル」「現実」と紐付いたところで解釈され、読まれることによって成り立ってきたはずの「おはなし」のジャンルであっても、それだけでは「おはなし」として受容されにくくなったがゆえに、さらにわざわざ「武将の萌えキャラ化」といった敢えて「おはなし」としてのしるしを上乗せトッピングして「おはなし」度をわかりやすく上げることで、ようやく「おはなし」として受容される/できるようになってもいる、と。

 このへんの事情に関して、別の方向からこのようなtweetがされているのは、ある意味で本質をついたものだったかも知れない。

 おそらく「聖性」というものも、表象の非虚構的な領域が確立されていないと成立し得ないものなのだろう。

 ただ、これらの流れの後、「プロレス」に関するtweetがなされ、それを足場とした展開になってきたことで、事態は一気にわかりやすくなってきたような。


 「島本和彦的な」という言い方が象徴的なように、要するにこれはやはり「80年代的な相対主義」が論点になっていたのであり、いまどきの言い方ならばあの「冷笑」的な感覚の淵源にも関わってくる問題提起だったらしいのだ。「スマート」と「マーク」という、海の向こうのファンダム界隈からとおぼしきもの言いが紹介され、このあたりからやりとりは闊達になる。「スマート」は相対化して楽しむことのできる、ある意味「おたく」的距離感、「冷笑」にも通じるデタッチメント感覚を内包した意識で、「マーク」はそれでもなおどこかで「現実」「リアル」と紐付けてしまう「熱さ」を払拭しきれない、そういう意味での「ガチ」主義な意識、といった感じにほどいておけば、とりあえずわかりやすいだろうか。

 ぼくの周りのプロレスファンから、一応今はスマートなんだけど、心の底に少年時代からのマークを抱えているし、マーク的に考えられるような場面を最高の瞬間として今でも待ち望んでいる元マークとしての微妙な心境をよく聞く機会がありますw


 スマートとマークという用語は何か他のジャンルに持ち込んでも色々とわかりやすいですね。AVもスマートとして楽しむ人が多いと思うけど、中にはマークもいるからAVで変なことをやるのはやめろと言ってる人もいる気がする。

 ロックやメタルの楽しみ方にもマークとスマートあるよなあ。矢沢永吉ファンにはマークが多そう、とかw

 自分はYAZAWAはスマート的に愛しています。あと、本来スマート的に愛するのが正しいはずのデーモン閣下をマーク的に敬愛しています。

 ぼくも矢沢永吉はスマートとして愛していますが、矢沢永吉本人の前で「矢沢さんのこと、スマート的に大好きで楽しんでいます!」って言ったら、その言葉の意味が彼にわかるなら、微妙に嫌な顔されるか、すごい怒られるかしそうな不安はありますw


 彼が歳をとってからのインタビューを聞くと、意外と冷静な確信犯なのかな、という気もしてきているので、そうだとすれば「おう、お前わかってんな!」的に歓迎されるかもしれない。

YAZAWAをスマート的に楽しんでいると伝えたら怒られそう」というのが、YAZAWAのガチ性を信じているという意味でマーク的発想かもしれない…?w あと僕のプヲタ友人も、心にマークを抱えてると言ってましたw 生き残った昭和プヲタの偽らざる心情なんだろうな… *3

 80年代的相対主義、あらゆるものが等価にフラットに等しく「意味がない」ように見えるようになったことの解放感。既存の権威も、それに伴う序列や価値も、全部とりあえず嗤い飛ばしておもちゃにして「遊んでしまう」ことが「正義」とさえ感じられるようになった同時代気分。なぜ、どうしてそうなった、なれたのか、というあたりのことも含めて、すでに「歴史」の過程に淡々と織り込まれつつあるらしいのだけれども。

 「本気」で「ガチ」で何かに熱中して「熱く」なることはバカバカしいことであり、くだらない。何よりそんな態度は「重い」し、めんどくさいし、それ以外のさまざまなものに関わってゆくことも妨げるから「カッコ悪い」。ある特定の立ち位置や一点集中な価値観などはとりあえず「もう時代遅れ」という片づけられ方をしていいものになり、「軽やかに」ここからあちらへと移動してゆき、その場その場で決して没入することもなく「戯れる」(ああ、これ、決定的に「あの頃」気分をあらわすマジックワードだったりした気がする)ことこそが「これからの時代」なのだ、という自明の気分。それこそ、タモリが火をつけたということになっている「ネアカ/ネクラ」というもの言いも、あっという間に広まってゆくには当時、それなりの背景や前提があった。

 これって、ある意味では「活字・文字」を「読む」作法、一点集中の黙読で形成されてゆく輪郭確かな自意識の相対化とも関わっていたのだろう、と思っている。

 「視聴覚」とひとくくりにされた、つまり「活字・文字」を基準にした〈それ以外〉を意識せざるをなくなってきた戦後、概ね昭和20年代半ばから後半にかけての時期ににわかに前景化してきたもの言いに象徴されるような、画像や映像、イラストからそれらを包摂したデザインや視覚的な構成のありよう、さらには耳を介して流入してくる「音」の複数化、過剰化などもひっくるめて、日常の情報環境においてわれわれの現実を構成している要素がそれまでと違う規模、異なる量を伴って変わっていった時期。社会化の過程でそれらの時期に遭遇した世代――「高度成長ネイティヴ」の概ね昭和30年代生まれたちが成人となり、社会の前面にくっきりと姿を現わすようになったことと、これら「80年代的価値相対化」の気分のそれなりに一気呵成の蔓延とは、関わっていたはずなのだ。

 「その文脈で、社会の中での「おはなし」の居場所というのも、それまでの情報環境におけるそれとはまた異なるものになっていったらしいこと。「おはなし」が日常に平然と入り込んできて、そうと意識することなくても「おはなし」的枠組みを呼吸するような状況が遍在化していったらしいこと。そのあたりも含めての言語化、対象化の作業は、おそらくここでごく断片的に提示された問いを足場に必要になっているらしい。

*1:Twitter世間での、例によってちょっとしたやりとりではあるけれども、虚構と非虚構、という図式だけでもなく、いわゆるリアリズムと表現、そして何よりそれを受容する「読者≒消費者」との関係において宿るのだろう〈リアル〉のありようの同時代性とその変遷などについてもいろいろと補助線、あるいはさまざまな問いの足場になり得るような気がする。なので備忘録として。

*2:「表象」という言い方がここで例によって悪さをしているとしか思えないのだが、そのへんはめんどくさくなるので当面の「わかる」のために敢えて無視しておく。

*3:「プヲタ」とは一瞬(゚Д゚)ハァ?……になったけれども、しばらく考えて、あ、そうか、「プロレスおたく」のことか、と納得した次第。