昔の映画、の距離感・メモ

懐かしい未来」とか「実現されなかった未来」を見てるような、それこそSF的な不思議な感じを覚える。単なる懐古趣味とも違う「何か」。そういう意味では、制作から時間が経った今になって初めて、国産製SF映画をSFとして「客観的に」評価できてることになるのだろうか?(多分、違うと思うけど)


 ソレは兎も角。我々は昔の映画を見るのは「「今の映画(に描かれる数々の現代的価値観)」に疲れたから、善や悪がハッキリしてる(ように見える)「昔の映画」を見て、癒されよう」という面もある。学校に馴染めない子供が図書館へ逃げ込むように、我々は「過去の映画」という逃げ場所を持ってるワケだ。

 最近のある種の日本映画見ると、ジャンルに関係なく「全部同じだ」と感じる。そんな時思い出すのが、黒沢監督が最近の自主映画に関して発言した「彼が撮ってるのは絵でなく、時間」云々。時間には時間の味わいがあるから、それはいい。でも、時間は万人に共通なものだから、結果的に作品は同じになる。

皮脂とか汗とか爪の垢とか、そういう「生身」に否応なくまつわってくるはずのものや、もちろん汗やワキガや体臭の類なども含めて、「あたりまえ」に「そういうもの」としてそこにあったことが、今だからこそ改めて記憶から新たに甦ってくる不思議。

80年代の「空気」みたいなものってのは、実は結構薄汚れたような、湿気や埃っぽさ、排気ガスの微粒子などないまぜに混じってたのかも知れない。
活字や音楽ではうまく甦らない、でも映画や映像だとそれが時に決定的なものとして記憶に再来してくる。