「いま」と「むかし」の距離感・メモ

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 高度成長の30年と、不況の30年では違う――それもありそう。36年前の流行曲がそのまま今でも通用するのは、作者が天才的だったのか、あるいは楽曲文化が当時すでに成熟していて、ある水準に達していたのでもう色褪せなくなったのか。


 紫式部源氏物語』は1000年前で、想像もできないくらい大昔だと思っていたら、自分が50歳になってみると、「1000年」はその20倍で、そんなにすごい大昔でもない――そう感じるようになった。(100歳の人にしてみれば自分の人生の10倍にすぎない、あんがい短い)


 1970年代~80年代に映画やイラストで夢想された「2010年代」は異様で、今ならどう見ても1000年くらいは未来の感じですが、1000年たっても人の暮らしや感覚はあまり変わらない、というほうが当たってる気がする。山下達郎「クリスマス・イブ」は、1000年後にも今と同じ感じで聴かれてるんじゃないか。

 例年この季節、話題になる「シンデレラエキスプレス」関連。というか、ヤマタツ「クリスマス・イブ」問題ではあるのか。

 歴史感覚というのはフラットに等質なものではなく、人により体験経験により自在に伸び縮みするし、何より同じ人の裡でも時期により状況によりその相貌を結構自在に変えてゆくもの。その意味で「歴史」とは可変的であり、人の数だけ存在するものだったりする。それら無数の個別具体な常に変わり続ける歴史像が、同時に「社会」という同時代のたてつけの中、情報環境との相関で互いに連絡をつけあいながら何らかの最大公約数、ある共通の像へと合焦してゆき続ける。そこに介在するのは広義の「おはなし」の文法であり、またそれを介さないことにはそれら歴史像は最大公約数の輪郭を獲得することはできないだろう。

 音も、匂いや手ざわりその他も、いずれ生身の人間の感覚、それらを介して「身体」に統合される官能なども含めての〈リアル〉のありかたは、そのような認識を少しでも考慮のうちに入れるなら、あらゆる細部、個別具体のディテールをないがしろにしない、できない歴史感覚を自分のものにしてゆかざるを得なくなる。

 いわゆる音楽、楽曲の体験にしても、そのような歴史感覚を介して考える素材にするのなら、個々のひとりひとりがどのような状況でどのようにそれを耳にし、何らかの感情をかき立てられ、そしてそれを自分の身の裡に記憶として抱え込んでいるのか、ありていに言って「読む」主体の側からの音楽体験、同時代経験の広がりに思い至るようになる。

 「時間」というのもまた、そのような歴史感覚を介して改めて別のものになり得るわけで、客観的に計測できるフラットな等質な時間とは別の、仮に同じ10年なら10年でも、それが当のそのひとりの人間にとってどのような歴史感覚の側に織り込まれているものか、そしてそれがこれもまたある意味等質でフラットに共通して訪れるらしい生きものとしての老いの普遍との関係で、果してどのような感慨を喚起するものになっているのか、それらのことにもまた、考えを及ばせ得るようになる。

 

*1:シンデレラ・エキスプレス問題、に関連して承前的に。