「書きとめる」ことの恩恵

 過去の自分に励まされる、ということもある。

 どんなカタチであれ「記録」していたからこそ、自分の場合はやはり文字にして書きとめておいたからこそ、浴すことのできる恩恵なんだ、と。

 ならば、じゃあこのTwitterみたいにweb空間に書きとめておいたもの、というのはそういう励まし方をいつか、やってくれるものなのだろうか、と考えてみる。まだよくわからないけれども、文字でも活字でも、やはり紙に書きとめられたもの、とはどこか違うんじゃないか、と今は感じるところが多い。

 手で、指で、この生身で直接触れたりめくったり撫でたりすることのできる「もの」という部分が決定的に欠けている。モニタに振れても画面を撫でても、キーボードを介して「書きとめられた」ものは、生身とその延長線上という感覚において、どこかやはり「違う」としかとりあえず言いようがない。

 以前、液タブを使い始めたら一度ヘタになる、といった話を聞いたことがある。絵描きというよりもデザイナー的な仕事の人だったけれども、何かビジュアル表現をする場合のデジタル系機器や道具を導入した時の感覚の違いについて。

 一度ヘタになって、ということはそれまでの手で作業していた自分の技術やそれを支える感覚が一度「崩れる」という経験を経て、でもそれがもう一度再構築されてゆき、ある種別の技術に組み替えられてゆく、うまく言えないけれどもそういう意味のことを懸命に説明しようとしてくれていた。

 キーボードを介して文字を、文章を「書く」ことをするようになっていった時期、自分自身にとってはどうだったのか、と振り返ってみようとしたのだけれども、すでにもうその頃の記憶はようわからんようになっていたので、自分自身の感覚としてはそれ以上突き詰めることもでけんかったような。

 ただ、もう一度意識的に、手で書く、筆記用具を介して紙に書きとめる、ということを、文章でなくてもメモでも走り書きでも意識的に、方法的にやろうとし続けてみないとあかんのかも、という漠然とした危機感みたいなものは、年々強くなってきているところはある。