今世紀に入って20年

 今世紀のはじめ頃、それこそゼロ年代半ばくらいまでに論じられたり語られたりしていた本邦社会であり国家でありの行く末、みたいなものは、今の時点で改めて読み直してみてもその間の時間の経過をあまり感じさせないところが正直、あったりするのはこれ、なんでなんだらう。

 むしろ今、この時点で読むからこそ逆にかえって切実に、リアルに受けとることができるような部分さえあったりするのはこれ、こちとらが老害化石脳化しているからなのだろうか。いや、それも当然あるとは思うたその上で、なんだが。

 本邦日本語環境でのそういう現実を把握するための道具としての言葉やもの言い群とその運用の仕方みたいなものも含めて、もうその頃から眼前の同時代的現実との関係を良くも悪くも絶ってしまってきていたのかもしれん、とかそういうこともあれこれ考えちまうぐらいの感じで。

 前から言うとる、今世紀入ってからこっちくらいの新刊書の類はよほどのことがないと買って手もとに置いて読むということをしなくなっとる、というこちとら事情とそうなっちまった感覚というのが関数として介在しとるということもあるにせよ。

 そのような感慨を抱かせてくれる本なり文章なり書きものなりというのは、それ以前の前世紀、それこそ「昭和」の人文書だったらそうなる確率がさらに高くなるような。21世紀ももう五分の一過ぎた〈いま・ここ〉の眼前の現実とうっかりクラッチミートしちまうような、かるい衝撃と驚きが出合い頭に。

 脳みその、いや、肉体としての脳だけでなくそれらに統括された「自分」の気分の調律具合みたいなものの、あ、いまちょうどいい具合、的な日や時間、時期が確かにあるらしいことに否応なく自覚せざるを得なくなるのもまた、老いてゆく中での新たな発見だったりするらしい。

 母語としての言葉やもの言いとそれを運用する技術やコツみたいなものも含めて、それらから乖離してしまったところで、われらの現実、同時代の〈リアル〉はもう勝手にうごめくようになり始めてだいぶたつのかも知れない。