オンナと評論の関係・メモ

 この、「自分だけが知っているような書き方」というのは、なにげないようでいて結構本質をついている。少なくとも、女性のライターに求められている原稿の質について、そのような書き方が現場の編集者レベルではなく「その上」の、つまり編集長的なマネジメント目線からは求められていなかったということの同時代証言としても。

 逆に言えば、「自分だけが知っているような書き方」というある意味「上から目線」で教え諭し、蒙を啓くような落差を自明のものとして書かれるようなものが、それまでの「批評」なり「評論」なりに埋め込まれていた自意識も含めた文体だったということであり、それは「知識」なり「教養」なりを前提にしたマウンティングが目的化していたことの証明でもある。そして、そのような書き方を編集長レベルは求めていなかった、と。さらにここで読み取られる限りにおいては、少なくとも女性のライターには、ということも含めて。

 「自分だけが知っているような」ととられる自意識を察知されるのではなく、読者と同じ目線で共感を獲得してもらえるような書き方をして欲しい、それがこれまであったし今もいくらでもあるそこらの男性主体のライターのいわゆる「●●評」でなく、あなたのような女性ライターに求められている映画なり何なりそれら「創作物」を介した原稿の商品価値だ――「上から」言われたことを勝手に忖度してほどいてみるとこんな感じだったのだろうか。

 メディアの現場において「女性」ライターに求められてきたもの、といったお題に丸めちまうと、これはこれでまたありがちな視点の平板な「分析」にしかならないだろうが、ただ、いわゆる「批評」や「評論」といった分野、少なくとも日本語を母語とする環境でのそれらにアウトプットされてきた文体というのは、そこに埋め込まれてきた自意識のありようも含めて、確かに女性としての気配をまつわらせてゆくようなことは、良くも悪くも考慮の外だったとは思う。これは創作そのものにおける「女流」という冠がどのような内実に対してつけられてきたのか、なども含めて、もう少し別の角度から立ち止まって考え直していいお題でもあるはずだ。

 確かにそのころ、女性の読む雑誌に、作品評みたいなものは少なくて、共感できる要素をちりばめながらあらすじとキャラクターの魅力を書くというものが多かったし、私も、何かこの作品や人がヒットしたり人気があるということを分析するというのは、何かすごく上から目線なことのように思えて苦手だった。


 それができるようになったのが、K-POPが流行りだしたころで、何かしらツイッターで思ったことを書いていたら、それを本にすることになり、今まで自分の思ったことを2000文字にまとめたことすらなかったけど、それを何本も何本も書いたことでなんとか本にまとめた。


 なぜK-POPならできたかというと、やっぱりアーティストとの言語を含めての距離感があったことがすごく大きいのではないかと思った。届かないからこそ、あの頃はできてたのかなと思う。だから、まだそのころは、日本のものを批評することは、なんとなくできないなと思ってたと思う。


 特に、ほんの数年前まで、アイドルのことは論じてはいけないものだと思ってたような気がする。そこから今のような感じになってきたのは、やっぱり2.5次元とか、物語についての考察ってものは、ファンの人を含めて、どんどんやっていいものになってくる空気を感じたのはデカかったかもしれない。


 そこからまた時間が進むと、ハイローが出てきて、なんかサイゾーが文字だけの本を作ったり、リアルサウンドとかでもどんどん感想言ったりしても、公式がほったらかしにしてくれるどころか、読んだうえでも、ほったらかしにしにしてくれたことが、どんだけ心強かったかとすごく思う。


 以前であれば、嫌がられることをやってるような後ろめたい気持ちがあったけれど、オープンな空気になると、以前のような後ろめたさもなくなり、読む人にも多少なりとも楽しんでもらえるということがちょっと見えてきた。そのころから、雑誌でもインタビュー以外のページを頼まれることが増えてきた。


 それはまだ今でもほんとにこんなページを楽しんでくれる人はいるのかなと半信半疑だけど、けっこうそこに感想とかをもらうことも増えてきた。


 それで、2019年は「ユリイカ」でも男性アイドル特集が組まれることになって。それはやっぱり、2015年とかでは無理だったし、ちょっとごまかしながら書くけれど、それはアイドルというものを論じることの分岐点がまさに2019年だったなと思う。

 K-POPがひとつの分水嶺だった、という印象も興味深い。ある程度距離を置いて「批評」することが、自分と地続き感のある日本の芸能商品ではなく、言わば「ヴァーチャル」な存在として仮構できる韓流芸能商品だったゆえにすんなりできたような気がする、という証言も含めて。そのような経験を足場にしながら、自分の半径身の丈、〈いま・ここ〉の現実に対してもそのような視点からの「批評」の眼が解放されていったように感じる、という経緯は、敢えて見当違いかも知れない大風呂敷を広げるならば、オトコにとっての〈リアル〉の射程とオンナにとってのそれとが本質的に違うものであり続けていたかも知れないこと、そしてそれがそれら〈リアル〉を編み出してゆく文法、話法に関わっていたかも知れないこと、などにまで、お題の視野はうっかり広がってゆく。

 だから、そこに「テレビ」がひょい、と出てくる。このように。 

 ここで話はちょっと変わるんだけど、私は自分のことを批評家とか評論家とは言えないとは思ってるんだけど、それはなんたるかがわかってないというのもあるし。でも、テレビについては、評論家と言われても、そんなに否定しなくてもいいのかなと思っている。


 しかし、そこにけっこうこの論点があるというか。映画とか音楽では評論家と名乗るハードルが異様に高いのに、テレビでは名乗れるのは、その分野に権威と自ら名乗る人がいなかったからだし、そもそもジャンル自体が映画よりも下、みたいに見られていることと無関係ではないと思う。


 そう考えると、私がこれまで論じてこれたジャンルは、主流に対してのオルタナティブのジャンルだけだったし、だからこそやってこれたんだなと思うことがけっこうある。例えば、俳優評は書かせてもらえても、固い作品評はあまり頼まれない、みたいなことはなぜなんだろうなと思う時代もあった。今現在は、それが少なくなってきているので、どちらもやれるようになっていけるようにしていきたいんだけど。それにしても、テレビの分野では、ベストを選出する男女の割合って、半々かそれ以上なのではないだろうかと。


 とりあえず今日はここで終わりにしますが、最初のほうのツイートで「鼻につく」と言われた媒体は、ひらりささんのツイートで「女性は共感コミュニケーションを好むから批評を好かないという意見」があったのと同じところなんだよね…。


 あと、いろんなジャンルやってきたから、論じることをやめさせられたジャンルというか作品もあったんですよ…。その作品、尻すぼみになったけどね。

 これは、かのナンシー関を異端の極北として、一見同工異曲の「テレビ」をネタにしたコラムやエッセイの類がある時期から雑誌メディアなどで猖獗を極めて、かつそれらの多くが女性ライターに割り振られるようになっていたことなども含めて、案外見過ごされているものの、実は本邦近代ブンガクの来歴にとっても重要な問いなのだと思っている。