路面店の書店がなくなると・メモ

書店が無くなるというのは、こういうことです。

アマゾンは基本は目的買いです。おすすめはしてくれますが、まったく関係の無い本との出会いはありません。

書店でふらふらと歩いていて、ふと出会う本もたくさんあるんですが、そういう機会が無くなるんですね。

流通のコンサルをしている友人(結構有名人)から聞いた話。

地方のタワレコ閉店後、その地域の人たちはネット店へ移ったかというと、多くの人が音楽を聴かなくなったそうです。
ネットは目的がある人向けで中間層はわざわざいかない。

リアル店が、実は音楽文化や読書活動を支えていたんですね。

 対面販売前提の路面店――つまり「お店」ってのはそういうものだったわけだが、野菜や魚、肉など日常の食いもの売ってるような店ではない、「なくても特に困らない」と思われているような、生存してゆく上で第一義に問題になるようなブツではないもの、を取り扱う店の場合、「便利」ごかしにネット介しての販売に軒並み以降してゆく結果、果して何が起こっているのか、という問題。

 音楽でも映画でも、それがすでに「情報」として具体的なブツ≒媒体としてでなく、ほんとにそれこそコンテンツとしてだけ流通する/できるようになっているわけで、それらをオンデマンドで、さらにはサブスクでバラ売り刻み売りが常態になっているという、野菜や魚や肉その他のどうしようもなく具体的なブツでしか最終的に手もとに持ってくるしかないようなもの、と意味が先行して違っているという事情も含めて。

 コンテンツとして純化させ「情報」化することでも商品としての使用価値は変わらないものと、どうしても最後はそうなれないものとの間の、「お店」の意味の違い。「ラストワンマイル」問題ではないけれども、そこをすっ飛ばせる形態になっているかどうか、がひとつい、いまどきの情報環境と広い意味で「経済」との関わり合いにおいて、実は案外決定的な違いになっているのかもしれない。

 「コンテンツ」≒「情報」化が完璧にできてしまうもの、というのは、「ラストワンマイル」が存在しない流通形態をとれるということなわけで、だから当然、具体的なブツとして最後の部分を手渡すことが目的の「お店」の具体性もまた、必要なくなってくる。だが、上記で触れられているように、そうなるとそもそもその「コンテンツ」≒「情報」化されたものに対する購買欲、手に入れたいという意欲もまた、根底から失われてしまうものらしい、と。

 「ショッピング」というのが、何も常にあらかじめ欲しいもの、必要なものを決め打ちで行われる営み、というわけでもないことは、誰しも思い返せば理解できることだろう。日常必要なブツの「買物」ですらそういうムダに見える部分を含んで成立していることは、たとえばスーパーやコンビニのレジまわりに敢えて並べられるガムやのど飴、その他「どうしてこれがここにあるんだろう」と思ってしまえば実にその存在意義がよくわからないような品揃えの商品群に対しても、レジ待ちの間に目について「つい手に取ってしまう」そういうものとしてそこにあることが見えてくる。

 もちろん、ネットでの買物、それこそ「ポチる」だけで「買う」が手軽に成立する環境においても、その手軽さゆえに「ついポチってしまう」契機というのは広く仕掛けられてはいるだろう。それでもなお、対面販売の路面店でのそれら「つい手に取ってしまう」ことの意味あいとそれらとの間には、それを行うこちら側の生身の感覚としての違いもまた、立ち止まって考えると確実にはらまれてもいる。

 上記tweetの最後の部分、「音楽文化」や「読書活動」と言われているような営みは、そのような路面店前提の「ショッピング」、つまり「つい目がゆく」から「つい手に取ってしまう」までの契機が常態として現実に仕込まれているような空間の成り立ちにおいて担保されたいた、という見解は、それなりに何となく納得してしまうけれども、そして一定の真実もそこには含まれているとは思うのだけれども、だがしかし、その「音楽文化」や「読書活動」のあり方そのものがそれまでの情報環境との関係で、別のものにならざるを得なくなっているのかもしれない、という留保もまた、どこかで必要なのだとは思う。本を「読む」、音楽を「聴く」という営みのありかたの遷移の可能性なども含めて。