学力の低い学生のほうが、この傾向が顕著なのを体感。自己肯定感が低いと「知らないこと→自分のこれまでの知識の否定→不快」「知っている知識→自分が正しいということの証明→快」という手順で受け止める。初めての知識を好奇心を持って受け止めるには自己肯定感と自分の枠を出る勇気が必要となる。 https://t.co/rXD5wDmEks
— gachagacha (@gachaga66150604) 2020年1月18日
なお、ここでいう「学力が低い」とは、おそらく小学5年生くらいから算数や国語を理解していないが、AOなどで高等教育に進学した人たちのことです。義務教育終了までの内容を身につけている人のことを指していません。「義務教育の内容しっかりマスター」+「読書習慣あり」ならば、(理系は除く)中堅より下の短・大学では、クラスの中くらいの位置じゃないかしらと思う。
この前提がすでに現実になっていることを、果してどれくらい本当に理解しているかどうか、というのは、いまどき「大学」についてのさまざまな能書きやもの言い、ご意見コメントの類に接していていつも感じる徒労感の源になっている。
ただ、実際には「義務教育の内容しっかりマスター」でも「読書習慣なし」の学生ばかり。「あり」はみんな社会人入学の人。とにかく幼い頃からずっと読書習慣(ライトノベルでもOK)があれば、教科書頑張れば読めるし思考力も鍛えれば伸びるから、卒業する頃には見違えるようになる。そういう人たちが多いと最初の授業で感じたら「私はあなた方を評価するためにここにいるのではなくて、学びを手伝うためにここに立っています」と伝えることにしている。学生たちの表情が少し緩み、集中が高まる。
大学なり何なり高等教育段階に至るまでの「学習習慣」(教育専門の人がたは割とこういう言い方をするような)がついていない、そんな物件がすでにあたりまえに眼前にやってきている、そういう現実を目の当たりにして、さてどうする、というのが、いまどき大学に新たに赴任してきた人がたの立ち往生のはじまり。それまで非常勤講師などやっていたようなポスドク、あるいは野良博士連ならまだしも、難儀なのは社会人からいきなり大学教員になったような「実務家系」と呼ばれる人がた。脳内の「大学」「大学生」像が昭和後期から平成初期あたりまでのそれで更新されていないか、あるいは自分の息子や娘についての、それも家庭の間尺での父親目線でしか見ていなかったイメージを足場にしか理解できないような物件。実務家経験があるんだから、企業や組織の部下や取引先などでそういういまどき若い衆世代のありように接する機会はあったはずと思うのだが、そこらも含めて実にこう見事なまでに眼前の実存、確かにそこに「いる」生身の存在についての理解の枠組みが固定されたまま、という事態は日々普通に出来する。
社会人学生の人がたも基本同じだったりするのだが、ただ、それでも彼ら彼女らはそういうかつての「大学」「大学生」のイメージのまま「学び」に来ているわけで、意識せぬままそれら「大学生」身ぶりをなぞってくれたりもする分、いまどき若い衆の学生連にとってはある種の雛型、生体標本として見ることもできるし、また実際、そういう効用はある。少なくとも社会人学生と現役学生とが同じ教室で同じ講義を受講できるような環境においては。
何かに興味や関心がある、好奇心を持てる、ということ自体、どうやらすでにある種の特権みたいになっているフシも。前向きに何かに興味を示すことができる程度に、そういう興味を持つ自分に対する肯定感(雑な言い方だが)が一定程度持てているということになるらしく、逆にあらゆる面でそのような好奇心の類を示せないような若い衆は、かつてならふてくされたりツッパったり(これも死語か)している客気まんまんな物件も含めてあり得たものが、いまではそのような鋭角の自意識の表現などまず見られなくなり、単に周囲の刺戟に対して防御的に閉じている、そうせざるを得ないような無機的で漠然とした生身の印象になっている。*2
多分、話していることの前提としての知識がなくて「何を言っているのか分からない」になっているという事のような気がします。知らないことを知るのは快という意識はあると思うのですが、略式を多々使用するコンサルの発表聞いているみたいに訳が分からないのではないかなぁ。
知識がない、それは情報を持っていないと言い換えてもひとまずいいようなものだろうが、仮にそれらを持てていたとしても、彼らはおそらく「何を言っているのかわからない」のまま変わらないだろう。というのは、持っている知識や情報を相互につなげたり、あるいは新たに眼にし耳にした知識や情報と関連づけたりすること自体にあらかじめ距離を置いて踏み出せないまま、という感じなのだ。単に知識や情報がたまたま貯め込まれたとしても、それが身の裡に定着しないで容易に手放されてしまうらしく、それはクラウドにじきに記憶させてしまうから手もとのローカルデバイスに置いておく必要がなくなっている昨今の情報環境とも、どこかでシンクロしている症状かも知れない。