同性であれ異性であれ、キモチを素直に表に出せなくなっているような生身の個体には、もちろんそうなるに至った事情や理由、背景などがさまざまにあるだろうということも重々承知の上で、いやだからこそなお、あまり良くない意味で「気をおく」ような間柄にしかなれないままだったような気がする。
「相性」や「好き嫌い」の類ではない、おそらく。そこから先、手間も時間もかけながら「つきあってゆく」ことに踏み出す、その最初の一歩を躊躇させてしまうような何ものか、の介在。
素直じゃない、とだけ言ってしまえばそれだけのようなものかも知れない。でも、その中身についても何かもっと拗れたものが配合されていて、そしてそれが当人の個性や性格といった水準だけで片づけていいようなものでもなく、たまたまそういう時代、そういう状況に生まれ合わせて育ってきてしまったがゆえの、当人は避けられないだろうし、またうまく自覚も気づきもできないような種類の難儀が、色合いの違う糸がうっかり混じって全体の色味を微妙に狂わせてしまっている織物のような印象で察知されるわけで。
そういう部分も含めて「縁がない」とだけ言ってしまうのは、さて、ほんとにいいのかどうか、未だにわからない。
ことを異性間のそういう関係、とりあえずは「恋愛」とくくられるような部分にだけ限ったとしても、昨今の「非モテ」問題のその日々の日常の中の発端、きっかけの部分において、そういう「何ものか」に相互に反応してしまうような鋭敏さが、あまりにうっかり誰にも平等に実装されるようになってしまっていることが否応なく関わっているような。実際につきあったり関係をもって維持したり、といった段階に踏み出すその手前でまず、そういう鋭敏さが発動されてしまい〈そこから先〉が立ち上がらないバグ。
外から見ている限りは冷静だったり平静だったり、そういう感情の動き方について察知しにくいような、まただから「クール」だの「おたく」だのと乱雑に、かつ得手勝手に評されて日々流されているような生身のありようではあるのだろう。また、だからそれ以上はまわりからも関わろうとしなくなっているし、それは昔ならばいざ知らず、昨今のような状況になって久しい現在、わざわざ〈そこから先〉に手かけてほぐして開いてゆこうと働きかけるような心性自体がもう、世間から失われつつあるらしい。だから、そういう種類の冷静や平静が、内実とは別に放置され、少しずつバランスを崩していっているような物件は、普通に隣にいるようになっている。古いもの言いを使うならば「愛嬌」のない、あるいはそういうものに乏しい若い衆世代が男女不問で増えてきて、もはやそれがあたりまえになってしまっているような印象すらあるわけで。で、それは昔から一定比率でいたようなココロのありようと生身の輪郭ではあるんだろうけれども、やはりここでも問題になるのは、それがこうまで誰にも実装され、あるいはそれなりに世間の表に見えるような年齢や場所に至るまでほったらかされてきてしまうようになった、そのあたりのことになる。
「めんどくさい」という評言が、自分も相手も含めたそういう生身の性格、個体のキモチやココロの働きも含めたありようについて使い回されるようになっていった経緯、などともどこかで関わっているのだろうけれども。そういう「めんどくさい」人や心理についての本は昨今、こんなに各種出されているというあたり、まあ、いろいろと。