MMTという経済理論が支持を得ている。国債の持ち主が自国民に限られるなら財政破綻はあり得ない、だからいくら国債が積み上がり、財政赤字が膨らもうと心配する必要はない、という、今の日本にとても都合のよい理論だ。しかし私には、どうしても欺瞞に見える。それを身近な日常から考えたい。
— shinshinohara (@ShinShinohara) 2020年2月24日
MMTという経済理論が支持を得ている。国債の持ち主が自国民に限られるなら財政破綻はあり得ない、だからいくら国債が積み上がり、財政赤字が膨らもうと心配する必要はない、という、今の日本にとても都合のよい理論だ。しかし私には、どうしても欺瞞に見える。それを身近な日常から考えたい。
私たちは、一万円を、一万円分の価値ある商品やサービスと交換できると信じている。貯金が百万円分あれば、その百倍の商品やサービスと交換できると信じる。そして事実、平和で平穏な時代には、大勢いる国民の中で一人や二人、そうした散財をしたとしても百万円に相当する商品やサービスを提供できる。
なぜそんなことが可能かというと、国民全体で言えばお金を使う額は毎年だいたい似たり寄ったりだからだ。そして商品やサービスの供給力も、前年と今年では大差ないから、需要と供給が釣り合う。だから破綻は起きない。
国が財政赤字を出しながら財政出動すると、国民は収入が増えるから少し気前がよくなり、プチ贅沢したりする。その需要増に応えようと生産も増える。これが好景気。しかし国民は収入をすべて支出に回す訳ではない。貯蓄も増やす。将来、百万円の価値の商品やサービスを手に入れようと考えて。
つまり、国の財政赤字(国債)とは、「国民が将来に要求しようと考えている商品やサービスの量」を示している。これが積み上がれば積み上がるほど、恐ろしいことを引き起こす糸が張り詰める。その糸は、ある時突然切れ、私たちを襲うことになる。
それが起きたのが、敗戦後まもなくの日本。戦中には、お国のためということで戦時国債の購入が積極的に進められた。人によっては、一生遊んで暮らせるほどの額に上ったという。だから戦争に負けた時も「いざとなれば戦時国債を売れば大丈夫」と考えた人が多かった。ところが。
まさに皆が同じことを考えたのだ。同じ時期に。よりによって戦争で国土が荒廃し、男どもはまだ戦地から帰らず、戦死したものも多く、女子供年寄りばかりで生産力がどん底の時に。
戦争に負ける前に1円で買えたものは、戦争に負けでも1円で買えると思い、戦時国債を現金化しようとしたり、実際に現金をたくさん持つ人はカネを出した。商品やサービスを提供する生産力が失われた、この時に一気にお金で買おうとした。しかし商品もサービスもないのだ。どこにも。
強烈なインフレ(物価上昇)が始まった。1円で買えていたものが百円出しても買えない。一生遊んで暮らせるだけあると考えていた戦時国債は紙屑同様、日々の生活の足しにもならないほど価値を失った。
つまりMMTが成立するには、大きな需給ギャップが起きないことが前提となる。
確かに今の日本は、今年も来年も同じ程度の需要と供給が続くだろう。需給ギャップが急変する心配はない。しかし巨額の財政赤字は、あることを告げている。将来、需給ギャップが出現することだ。
少子高齢化で若い労働力は減り、商品やサービスを求める老人は増えている。財政出動で景気がよくなった気になるが、介護や保育のサービスが上がらないのはなぜか。実はそこに、需給ギャップが先行して現れているからだ。介護や保育の人件費を上げれば、労働力がそこに集まるだろう。すると。
世界に自動車などを輸出する産業から人がいなくなる。食品やサービスを提供する人がいなくなる。需給ギャップが誰の目にも明らかになるだろう。だから介護や保育の給料が上げられない。それらの現場に踏ん張ってもらうことで、かろうじて需給に破綻が生じないようにしている。
財政出動すれば景気がよくなった気がして、皆よく働く。それにより商品やサービスを増やしている。しかし私たち一人一人は、今稼いで、将来百万円分の商品やサービスを手に入れようと思って貯蓄している。ここ、大事。
しかし私たちの子どもが成人する頃には、老人たちの需要を満たすだけの商品やサービスを生産する力はない。少子化で労働力が足りないからだ。この時、需給ギャップが明白になる。しかし老人は、百万分の商品やサービスを手に入れようと、百万円払う。しかも多くの老人が同時に。
商品やサービスを供給する力がないところにお金が支払われれば、インフレが起きる。そのとき私たちは初めて気がつく。どれだけカネを積んでも商品やサービスが手に入らない現実に。というより、お金が紙切れになったことを思い知らされる。
それが起きたとき、厄介なことがある。確かにMMT理論が言うように、お金を発行する権限は政府にしかない。徴税権も政府にしかない。だが、お金を紙屑にした政府を、そのときの国民が信じられるだろうか?そんな政府の発行する新貨幣を信じられるだろうか?
戦後日本では、新円切り換えしたとき、幸いにも新しい通貨は信頼を得た。しかしこれは幸運にもほどがある出来事だった。旧円を紙屑にした政府の発行する新しいお金を信じることができたのは、アメリカのおかげだった。
当時日本はアメリカのGHQに支配されていた。そしてアメリカは共産主義化を恐れ、日本に多大な関心を持っていた。日本の経済が安定しないと大変だと考えたから、アメリカは最大限コミットした。だから新円は信じられたのだ。
しかし将来のアメリカにそれだけのコミットを期待できるだろうか?無理だろう。日本がハイパーインフレを起こし、新円を発行するデノミを実行したとしても、国民は、手痛い目にあわされた政府を信じず、新円は機能しないだろう。アフリカの貧しい国の通貨のように。
MMT理論は、いくつかの幸運が続くことを前提にしたものだ。そしてその前提が続くとはどうしても思えない。MMT理論を知って財務省にだまされていた、という人が増えているが、敗戦後に起きた日本の実体験の方が、リクツだけのMMTよりよほど説得力があるように私には思える。
一部で救世主のようにもてはやされてるようなフシもある「MMT」とその理論(だか何だか)。緊縮グローバリズム新自由主義的あれこれの流れに歯止めかけるためのモーフィンドロップ的な、そんな受入れられ方にとりあえずは見える、岡目八目的には。
ムツカシいこと言わないで、とにかくガンガン札刷ってバラまきゃいいじゃん、財政規律とか何とか言われて脅されてるけど、それって「国民の借金」じゃないじゃん、だから今はとにかくバラまき財政出動するのが大正義なんだお!――――とまあ、こんな具合に吹けあがる向きにとって、まずは絶好の理論的支柱みたいなことになっているフシまであるような。
財務省悪玉論、財政規律だのプライマリーバランスだのと言いながら「国民ひとりあたりの借金ガー」「孫や子の代にまでツケを回すわけにはいかない」と専門家の顔でわれら国民同胞その他おおぜいに向って教え諭してまわるインテリ知識人文化人の類に対する、ごく漠然とした、しかしその分しっかりと根を張っている歴史・文化的背景を伴った「なんか信用できない」「なんか騙されてる気がする」という気分にも、当然実にうまくハマるもの言いということにもなっている。
で、それがどこまで妥当なものか、経済学その他の専門的たてつけにおいてもどれくらい信用できるものか、といったあたりのことについて、確かにこういうことらしい、とはっきり宣言できるような説明なり解説なりが、実はまだ出ていないように感じる。まただからこそ、「MMT」をめぐる言説は有象無象含めて百鬼夜行的な様相を呈してもいるわけだが。
ここで拾った例によってTwitter上での言及の一片。ことの真偽、信頼性の濃淡などとは別に、せめてものこれくらいのゆるやかな精度でまず、フツーに本を読み、文字となじめるくらいのリテラシーを持った「いまどきの知的その他おおぜい」に飲みくだしやすいカタチにした説明が、もっと複数、それなりの密度で表のメディアにもあたりまえに出てくるようになってくれんとあかんのだろう、とマジメに思う。