書き手とエコーチェンバー

 エコー・チェンバーって、みんなが刺さって読むようになった「有名な書き手」にも起こる現象らしくて、な。

 要は読書市場の大衆化が進展してゆくことで必然的に起こってくる現象なんだと思うが、戦後直近地続きだと60年代半ばあたりからちらほら現われて、70年代から80年代にかけて全開になっていった印象がある。

 それこそ柳田国男なんてその初期の事例かと。最晩年に著作集が計画されて出始めたあたりで逝去、それきっかけに一気にいまあるような脈絡での「評価」が形成されていってるわけでな。そのへん当時から益田勝実がちらっと言及しとったと思うが。

 吉本隆明であれ鶴見俊輔であれ、いずれそういう「みんなに広く読まれるようになってしまった」書き手の「評価」ってのは、そういうエコー・チェンバーが形成されていった過程と併せ技で読む、読めるだけの、動態的な情報環境についてのリテラシーがないと単なるチェンバー内の劣化相互コピーだわな。

 著作や業績が「リスト」としてリニアーにフラットに並べられちまう世界観、手癖含めた「処理」の間尺だけで見るような今様「まじめ」「優秀」物件視線からは、そういうエコー・チェンバーの形成過程とそれらとの関係で生産されていった面もある個々の業績固有の文脈などは、初手から視野の外だわな。

 本邦日本語環境での読書市場の広がりとそこに宿るその他おおぜいの「読み手」のリテラシーとの関係で著作や業績も生産されてきた人文社会系の書き手の「仕事」のありようからすると、そういうエコー・チェンバー的読書空間の形成と情報環境の変遷という補助線は必須の前提になるわけでな。