「冷笑」と本気の間

 ネット右翼の起源とか、若者保守化の背景とかの考察は数々出版されていて、それ事態は結構なことなんだけれど、平等を突き詰めた果ての太田竜とか、ニューエイジ思想の問題点とか、当然の前提だと思っていたものが、全くそうじゃなかったことに驚く昨今。危険を脱臭した上で意匠を楽しんでいるものとばかり思っていたら、送り手も含め全然本気だった…。趣味ならば安全と思考停止していたツケが、ここに来て露になっている。文学史の復習と共に、戦後サブカルチャーの通史が書かれることの必要も強く感じます。


 おれ自身もね、取り扱い注意の思想にどうしても惹かれてしまうところはあるんです。窮民革命論とか、唱えた人の人柄とか言動含めてどうにも捨てがたいものがある。でも、そうした細かな可能性の発見は、ほとんど普遍化が不可能なことを前提として受け入れることからしか始められない。そうしたことが、価値相対化の時代を経て、共有されているはずだと思っていたら全然そうじゃなかった。各々がそれぞれの小集団の繭の中で思いたいように思っていただけだった。これは正義の忌避とか、冷笑の批判で片付くような簡単な問題じゃない。