日本経済の真の姿、と、それを語るもの言い・メモ

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 Twitterには「経済」について一家言ある御仁が多い。少なくとも自分のTLでさえも、それなりの比率でそういう垢が存在している。自分自身いわゆる経済関連についてはほぼシロウト並みの知見や見識しか持っていない自覚があるので、そういう人がたの披瀝してくれる見解や解釈、ものの見方などには、たとえ断片的な印象にすぎないものであっても、基本的にまず傾聴してみることにしている。

 それは、自前で何かそういう経済関連の解説本を手にしたり、あれこれあさってみることとは別に、素朴に耳学問、それこそ最も豊かな意味での床屋政談ならぬ電網喫煙室か休憩所みたいな感じで、はあ、そんなものか、なるほどなぁ、とそれなりに得心して自分の肥やしにできるものならしてみようと思う、良くも悪くもそんな感じであり、その程度ではあるのだ、とりあえずのところは。

 基本的に自民党は保守の色が濃いですから、製造業などの産業や農業等を大きく変化させる事を嫌ったのは間違いないと思います。日本のバブル崩壊後の処理がリーマンショック後の欧米の処理と違ったのは、負債を真面目に消し込んだか金融のマネーで帳簿から消したかの違いです。


 実際、多くの外国に比べて平均賃金が上がっていないというのは、欧米やアジア新興国等では金融やITなどの職に特化してその従事者が高給を得る代わりに、それに就けない者は失業して生活保護で生きるからです。ですので平均所得が上がるのは当然で、全体を見る必要があるのです。


 国全体のGDPを見ても判るように、日本は失われた20年(30年)という時間を過ごしながら、実はGDPが減っていません。其れどころか絶好調であった筈の殆どの国は日本を追い越せず、中国は20年余り、GDPの水増しが行われていた為、本来のGDPは約半分なのです。


 逆に日本は本来ならGDPに加えられる筈の研究開発費等を資産に計上していなかった為、GDPの伸び率が低く抑えられていたのですね。弊社の資産では日本の本体のGDPは8兆ドルを超えます。逆に中国は6兆ドルに届きません。


 旧民主党の経済政策はコンサルタント的な時点では正しい方針でした。ただ、其れをきちんと実行した場合、今の英国や欧州諸国のように金融とIT(然もソフトウェアだけ)に特化した歪な経済構造になっていたでしょう。特に災害に悩まされる日本では無理な話です。


 今のコロナ禍を見ても判るように、日本の経済構造の強さは「効率を極限化させない」事にあります。生産性を極大化させるという事は平時における収益を最大化しますが、非常時に脆くなるのです。其れが社会の安定を生み出す為、日本は非常に層の厚い労働環境を持っているのです。


 今回のコロナ禍で多くの欧米の企業が倒産したり失業が膨れ上がっているのを見て、多くの私の顧客や取引相手が泣きついてきました。地域に密着して、地道な製造業を含む地場産業を育てる私の投資の仕方を笑った自分が馬鹿だったと。

 おそらくは、株や投資といった方面に明るく、またかなりの確率でそのような仕事に実際従事しとらすような人がたが、TLで「経済」を語る垢には多いようにも感じる。いわゆるある時期までのあたりまえとして考えられていたような、一般教養的な経済学のたてつけでの大風呂敷な議論の水準ではなく、金融経済の方向から見た最もアクティヴで鉄火場的な動きをしている現場から見た「経済」。そのような枠組みを実装した上で眼前の現実、〈いま・ここ〉のありようをスキャンしてゆくと当然、こちとら旧世代的なアイピースを介したそれとはかなり異なる「現在」が見えるものらしい。

 そして、そのような見え方をする「現在」の手ざわりを足場にしながら、個別具体の〈リアル〉の方へともう一度合焦してゆく。その振幅とそれを可能にしている〈知〉の運動能力が、こちとら旧世代がなけなしの語彙と甲羅を経た分いささか動きの鈍くなった手持ちの道具を懸命に駆使しながら追随しようとしている個別具体の現実を介したのとはまた少し違う、ひと皮むけたかのようなたたずまいの〈リアル〉を現前させてくれたりもする。

 愚かな話です。誰が自分達の食べる物を作り、流通させているのか。誰もその事を考えず、「代わりの労働者は幾らでもいる」と考えていたのですよ。掃除業者に感謝を言う私を馬鹿にしていた資産家は、その地域の公共サービスが停止してゴミに塗れて食中毒に罹りました。


 製造業を守り、雇用を守る努力をするという事は欧米の企業が東欧諸国や中国等に移転した安い製品との競争をするという道でした。欧米諸国が安い労働と製品を高付加価値の金融とITで得た利益で買い漁るのに比べて、日本は製造と消費を内需で回すという経済だからです。


 多くの人の目には其れが停滞に映り、華やかな金融やITの世界に乗り遅れた技術後進国のように見えたのでしょう。ですが私の目には今の日本の姿は鍛え抜かれた鋼の銘刀に、欧米等の国々はメッキが剥がれて錆びた刀身が剥き出しになったなまくらに映ります。

 「日本すごい」「日本すばらしい」的な自己満足言説に対する揶揄や軽侮の論調も、いわゆる良心的なリベラル陣営方面からいくらでも出てきていたし、またそのように反射的に感じてしまう違和感については多少なりともわからないではないこちとらのような不信心者にしても、単にその字ヅラやもの言いの調子だけでなく、先に触れたような〈知〉の脚力、振幅を支える運動能力を駆使した上での「評価」の言説には、ことの真偽やその程度は判定できないまでも、ある説得力と信頼感みたいなものは素直に感じざるを得ない気がする。たとえ、それがもしかしたらいまどきのいわゆるコンサルタント的なセールストークの最新型の一環であったかもしれないにせよ。

 皮肉な事に、東日本大震災という未曾有の災害が、その真の姿を映し出したのでしょう。当たり前の事が、ものが、日常が本当は尊いものである事。それを生み出している人々や運び、人に渡す人達。平時でなくなった時に初めて気付かされた事は少なくなかったでしょう。其れが今の自民党の支持に繋がり、自民党も其れをしっかりと受け止めていると思います。