大学受験の記憶

 なんで自分は東京の大学に行こうと思ったのか、40年以上前のこととは言え、何度改めて思い返してみても特段の理由があったとは思えん、むかしも今も。

 大学に行くもの、というのは何となくそんなものだと思っていた程度だったけれども、浪人したら職人にする、とオヤジが言うてて、多寡くくってたらある日知り合いの大工の親方連れてきて話し込んでるのを見て、あ、やべぇ、本気だったわ、と思ってそれからにわかに発心して、という話は前にもしたかと。

 にしても、家の裏手がすでに大学だったし、家から通える大学ならいくらでも選択肢はあり得たはずだが、なんでいきなり「東京」と意識定めたものだったのか。やはり「大学生」は「家を出るもの」という定式がいつしかどこかに刷り込まれていたのか。どう考えてもそうとしか思えんのだけれども。

 生まれて何年かとは言え、一時期は東京にいたわけだから、全く見知らぬ土地というわけでもなかった分、どこかでそういう「里帰り」的な意識も少しはあったのかも知れんけれども、だからと言ってありがちな「憧れ」とか「立身出世」とかそういう感覚も実はあまりなかったのもまた確かだと思う。

 普通科だったから♂だと進学希望は半分以上はいたんじゃないか。で、その場合狙うのは京阪神間の大学になるわけで、「東京」狙うのはまずいなかったし、何より高校の側がそんなことは想定すらしていず、入試関連の資料も地元以外はほぼ皆無。まして国公立でない私学となると初手から外道扱いだった。

 理数系がまるでダメで英語も苦手、それで大学行きたいなんざ私大文系3教科一択なわけで、進路指導の教師もまともに相手してくれるはずもなく、手探りで我流の受験対策をわけわからんながら高3の夏休みに入るあたりからあわててジタバタやり始めた。

 進路指導で受験対策は国公立大しか想定していず、それもせいぜい夏休みの補習みたいな程度。私大は「滑り止め」以上でも以下でもなく、敢えてそこに特化した対策など意識の外。当時のとりたてて進学校と目されるほどでもない県立高校の進路指導の意識というのは概ねそんなもん、だったようだ。

 自前で情報収集するしかないとは言え、当時のことゆえ赤本開いて過去問精査と、あとはせいぜい通信教育や模試ぐらい。夏休みは京都の予備校(駿台だったか)の夏期講習に潜り込んだりもしてみたが人の多さに圧倒されただけ。ただとにかく私大文系3教科特化の勉強だけは見よう見真似で続けてはみていた。

 センター試験どころか共通一次も導入以前だったが、浪人したら共通一次受けなきゃならなくなるという恐怖もあり結構必死ではあった。そのせいか、理数加えた国公立5教科だと学内試験でも学年300人程度の200番台確定のワヤだったのが、私立文系3教科特化になると夏休み明けに一気にふたケタ台前半に。

 現金なもので結果が出始めると調子もこくわけで、通信教育にみならず各種模試なども武者修行で割と受けるようになって「全国区」のものさしを意識するようにもなる。A判定B判定だの何だのという受験生用語もその頃ようやく知るようになった。その程度に「地方」だったんだと思う。

 「井の中の蛙」じゃないけれども、情報がとにかく今とは比較にならないくらい少なかった時代、でもだからこそあれこれジタバタしながら試してみることに集中できたところはあったのかも知れん、とはおも。ものを知らない、というのは文脈によっては確かに強みになり得るものなのかも知れんなぁ、とも。

 それでも身近なものさしは学内の阪大京大狙っていたアタマのいい連中の模試成績。連中は5教科、こちとら3教科だが、私大文系3教科で連中と張り合えるくらいまでなれれば、東京の大学でも何とかケンカにはなるんじゃないか程度の目算。でも実際、最後までアテになったのは彼らの成績との距離感だった。