文字活字の「読まれ方」というのが、その当時の情報環境とそれに伴い編制されていたはずの言語空間において、加えてその頃生きていた生身の身体とその身体性を介してどのようなイメージなり創造力の結果なりを宿していたのか、という問題。#わけのわからないことを言う
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2020年11月1日
「大菩薩峠」だけが特に異様なのかどうか知らんが、あれはどう考えてもいわゆる「(近代)文学」な「おはなし」作法とそれに基づく「おはなし」空間のたてつけとはまるで違うものだったんだろうとは思うとる。
そのことに当時の読者なり、その一部であったインテリ知識人系が気づいていたのかどうか、気づいていたとしてどのような「語り方・語られ方」になっていたのか、といった視点からの「読み」を介した「歴史」の再構築の可能性。
「いわゆる「(近代)文学」な「おはなし」作法とそれに基づく「おはなし」空間のたてつけ」というのは、当時の情報環境における口承的な部分や「語り」的な部分との複合は、まず視野に入っていなかったのではなかろうか。
オンタイムで、これはなんかヤバいぞ!とざわついたのが鏡花と谷崎ですね。とはいえオンタイムで分析できるようなもんじゃ無いですからね。
ああ、鏡花もそういう受け取り方されてた、ってことですかねぇ……(小並感)
自分、鏡花がずっと口に合わんというかあかんのですが、もしかしたら当時のそのへんの受け取られ方自体が「ああ、そういうことね」的な陳腐さ介したものであるような察知の仕方をあらかじめ先回りしてやらかしてしまうから、なのかもしれませぬ。