「パパ活」・雑感

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 「パパ活」ってのようわからんのだが、ワンチャン狙いとか抜きに一緒にメシ喰うだけでも対価が発生するん?それにカネ払う感覚ってのは、メイド喫茶や恋愛ゲーみたいなのに馴らされた果て、てな事情もあったりするん?しらんけど。

 それに対して、いわゆる「風俗」遊びが蔑視・嘲笑されるのは、カネとそれに対する対価があらかじめ決められている(明示的ではなくても)から、「恋愛」的先行き展開不透明な状態こそが対価、的な感覚に比べて「自己決定」という体裁がない分「汚れている」wといった了見が下地になっとったりするん?

 ゆるふわ草食化して「セックス(すること)」をあれこれぼやかして、かつそれが必ずしも目的というわけでもないところまで含めて多様化wさせた仕掛けの中での、今様「援助交際」、てな理解でとりあえずええんやろか。カネを払うこと、に対する対価の部分が漠然と領域化してて、何に対しての対価なのかが漠然として、かつあらかじめ特定もされない、というのはこれ、エロゲや恋愛ゲー(いや、よう知らんのだが)に課金して挑むことと極私的な経験としては同じようなもん、だったりせんのん?

 いやほんまに、ようわからんのだわ。かつて流行った「援助交際」と同じようなもんかと雑に思っていたし、極私的にはそれ以上の関心など持ちようもなかったんだが、ふと立ち止まって考えて「パパ活」的空間というのがあらかじめあるのかも、と思い至った。

 「セックス(すること)」が最終目的というリニアーな展開でもなく、それ「も」あり得る、という程度にぼやかした、しかしその分〈それ以外〉の領域も漠然と含めた対価≒「商品」化の対象になってしまっている状態。管理する主体としての「業者」が介在しない「売春」が、「個人」の「自由」(「恋愛」がオプションでついてくる)を盾にして、その間のさまざまなリスクに最低限ケツ持ちの責任を持つ存在をなしくずしに無化していった経緯。良し悪し別にひとつの過程として。
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 ただ、これは「売春」ではすでにない、タテマエも含めて。「セックス(すること)」に特化した対価の発生の仕方ではないから。むしろそこに至る過程全部含めて対価が発生する。だから法的な視線からの網のかけようがとりあえずない。少なくとも困難である。だって「個人」の「自由」だから。

 つまり、ウーバーなんちゃらなんかと同じ、明確にケツを持つ管理責任と共に中間搾取が発生するたてつけではない。「管理売春」というその「管理」する主体がどんどん曖昧化されてゆき、ついに「個人」の「自由」を盾にほとんどの領域に対価が発生する仕組みにまで「進化」したらしい。「個人」の「自由」前提の領域の殆どに対価が発生する状態。そして、その内側で起こり得ることも全部「自己責任」で、かつての管理売春とその延長線形態のように「業者」による中間搾取はあり得ない。だからその分、リスクも含めて全部「自己責任」になる。な、やっぱりウーバーじゃないか。

 一緒に一対一で「いる」ことからすでに対価が発生するという事態は、警察系由来の「個室」に対して法的な網をかけてくる視線とも重なっている。「つがい」が公然と世間に存在し、視線にさらされる状態に附される意味や解釈の歴史含めて。オンナである(≒そういう性的存在である)ということ、そのような属性の個体が、個人として一対一で「いる」状態から対価が発生し、それはその先、散歩であれお茶であれメシであれ一杯呑みであれホテル行きであれ、全部その対価の範囲内に包摂されている、と。このへんは戦前の「ステッキガール」的なたてつけと表層的には地続きではある。「自由恋愛」というもの言いの適用範囲とその歴史なども、また。

 「専業主婦」願望が明確で強いおにゃのこ、ってのは、そういう「面倒みる」主体、それができるだけの存在とそこから「面倒みてもらう」存在に自分もなることについてのモティベーションが素直に高いような印象はある、昔も今も。

 でも、それって必ずしも「依存的」になることではなかったりするんだよね。「面倒みてもらう」ことができるだけの存在になることは、主体的である種自立しようとしないことにはなれないものだったりもするんだよね。さらに、そういうおにゃのこは、自分が面倒みるべき立場になってもちゃんと「面倒みる」ができたりするんだよね。相手が子どもだと「母親」が、同性だと「いい先輩や上司」が、異性でも「姐さん」が、それぞれできるという……

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