多様性が増すほど、数字とお金の重要視が増すの、パラドックス的で興味深い。文化や特徴や嗜好や信条の異なる人が、混在していくほど、コミュニケーションと調整の難易度が上がっていく。結果的に、統一言語としての数字やお金の価値が上がってく問題。
— 深津 貴之 / THE GUILD / note (@fladdict) 2021年4月17日
お金とか標準偏差とかは、「多様なものを1つの物差しで比較するツール」なので、世界が多様になるほど、重要度と活躍の場が増える。お金はあらゆる差別の意味を薄めて、代わりにただ一つ「お金を持っているかどうか」という差別に集約する機能があるのかなと。この辺のパラドクスはムズイ感。
サンデルの批判するメリトクラシーが強い力を持つのも、点数や偏差値が、多様性のある社会において、統一言語として便利に機能しちゃうからかなぁ。本当は多様な評価軸…が欲しいのだけど、それを社会が現実的なコストで運用する方法が見つかってない問題。
世界の現状課題として、「真に多様な社会では、お金がとっても便利」という問題。お金を持ってれば、価値観の違うコミュニティに移動しても地位や生活基盤を得られる。一方で、全財産が「特定の価値観でしか通じないモノ」の人は、その財産を生かせるのは所属コミュニティの中だけ。外と交流しにくい。
そうすると…… 多様な社会では、「汎用の財」or「換金できる財」を持たない人は、別コミュニティに出るより、自コミュニティに引きこもる方が合理になる。多様な社会が、多様の分断した閉じた社会になる。いきなり多様性を作ろうとすると、人種や性別や職業で固まる構造問題ある感。
閉じた社会では、お金は「外から来た人が、うちのコミュニティでデカい顔するツール」として機能するのかな。閉じたコミュニティほど「お金を穢れたもの、下品なもの」と捉える構造は、多分そうやって発生するのかなと思う。多様性をつなぐ接着剤が、逆にアンタッチャブルになる。多分、そういう構造。
そういう中で、「お金でも数字でもない統一言語」は、どうすれば作れるのか… あるいは、そんなものは不可能なのか… というのが、本日お風呂の中で悩んでいること。
Twitterで、フォロワー数やRTやFavが重要視されちゃうのも、それが統一言語、統一指標としての側面を持つから。だから多くの作家は渾身の作品のRT数が、雑にあざとい猫動画に負けると、心にダメージを受けてしまう。二つのマーケットサイズの違うものの評価を、同じ物差しで比べてしまうから。
でも本来は、ショックを受けることじゃない。作品の質の評価ではなくて、「受ける市場の大きさの差」が可視化されたにすぎないから。でも、数字やお金は、そういう異なる単位を、同じスケールに乗せてしまうので、ダメージを受ける。