原発と共に生きたこと・メモ

 私の父は、貧しい漁村から炭鉱に就職したもののすぐ閉鎖となり、あてもなく出て行った関西でプラント建設業界に飛び込み、製鉄所や化学工場や火力発電所の建設を生業にして、その後若狭で原発に仕事が増えたので拠点を移しました。高度成長期の電力や工業の変遷の道に従って歩いた人生だったようです。


 私はその若狭で育ち、父と同じ様な原発のメンテの職に就きました。主に「原発銀座」とも呼ばれた若狭にあるたくさんの原発で仕事をしましたが、時々は他府県の原発での仕事をしました。ただ、東電の事故後暫くは原発の仕事が減ってしまい、各地の製鉄所や化学工場や火力発電所に仕事を求めました。


 原発業界は他の分野とは隔絶した、極端に言えば利権を共有し合う一部業者による独占的な世界と思われる人もおられる(確かに業界の片隅にいる私も驚くような金品授受問題もありましたが)ようですが、建設やメンテの世界は他の分野と地続きで、共通の技術も多く使われ、人の行き来もあります。


 私もたぶん父も、こういった仕事で電力や製鉄や化学の業界の一端を支えているという小さな誇りを持って仕事に喜びを感じています。ただ、原子力に関わった時にだけ、その小さな誇りを汚されたり仕事の喜びが薄れるような言葉をメディアを通じて投げつけられることがあり、それがいつも悔しいのです。


 私の町には電力会社以外にもメンテ業者など原発に関わる企業が多くあり、また間接的に品物やサービスを提供している会社も多く、大きな地場産業となっています。その住民として国のエネルギー政策に協力しているという思いもあるので、原発に絡めて地元を揶揄されるのもとても悔しい気持ちになります。

 「原発」をめぐる言説自体、もう歴史的な堆積の上に同時代の世相と共に転変を繰り返してきている。その経緯自体をまず相対化した上でないと、「原発」を語ること自体、とっくにできないはずなのだが、本邦日本語環境でのことばの習い性、なかなかそうはならないまま、あの3.11の震災の事故で、また新たな言説の噴石類が分厚く詰まっては、いまどきの情報環境ゆえの発酵や化学変化を起こしてしまい、にわかにはもう手のつけようのない状態になって〈いま・ここ〉となっている。

 「地方」をめぐる言説との複合した地盤で、少なくとも考えねばならないということは、ずっと感じているのだが、そもそもその「地方」を語ることもまた、「原発」以上にここ半世紀ほどの本邦の難儀の裡に溶解してしまっているようなもので、いずれにせよ、「原発」や「地方」を「問題」として語ろうとした瞬間から、それらの泥濘の広大さの前に立ち尽くすしかない、というのが、おそらく最も誠実な知性のありようなのだと思ってしまう。

 そんな中で、何らかの足場を確保しようとするのなら、やはりこういう日々の生活と暮しに根ざした個別具体のことばを、たとえぽつりぽつりとでもかたちにしてゆくしかないのだろう。迂遠で気の遠くなるような話であることはいまさらながらではあるものの。

 「原発」で潤った「地方」の〈リアル〉。それは、高度成長期の新たな工業地帯開発の国策に伴って、当時の「地方」がみるみるうちにひん曲げられていった時期の、新聞や雑誌その他、今よりはまだ足腰もあり、何よりことばもまた少しは現実とクラッチミートすることが可能だった仕事などを拾いながら、ここでたまたま開陳されているような〈いま・ここ〉と地続きのことばとの接続し得る場所を、それぞれで探ってゆくしかないのだろう。

 あの田原総一朗などでさえも、かつては君津や鹿島の工業地帯の「開発」の〈リアル〉について、いまどきの本邦ジャーナリズムなどよりもはるかにまだピントのあった原稿仕事を手がけている。あるいは、松本健一なども、自身確か旭硝子だったかの会社員だった経験を反射板にして、当時の本邦大企業が「高度成長」の現実にどう関わっていたのかについて、今ふりかえって読み直すに値する民俗資料的な仕事を残している。

 ただ、問題は、そのようなささやかな当時のあたりまえの仕事、ジャーナリズムの片隅に普通にあり得たような書き残されたものについて、鋭敏に反応し、点と点を繫いでゆくような発想を持つ知性自体がもう、ほぼ絶滅品種になってしまってもいるらしいことだ。