日雇いという生活保護

 昔の不要不急(と言われた)公共事業、日雇いのおじさんたちにとっては「形を変えた生活保護」のような部分があったと思うんですよね。令和の今は、もう一度あれや、あれに類する(女性向けとか)事業を公共がお金を出してやるべきと思いますね


 あれ、生活保護よりもよかったのは「何のかんの言ってインフラが整備される」「生活保護のようなスティグマ感がない」「生活保護よりも『仕事をしているんだ』というプライドを持てる」というあたりで、いや優れたシステムだったなあ。


 これは目新しい話じゃなくて、公共投資削減論真っただ中の90年代当時、こういう議論を若手官僚としていた時に出た話なんですよ。で若手官僚氏は「それはわかってる。でもその『見えない生活保護』を可視化しろ、というのが今の行財政改革なんだよ。仕方ないだろう」と言ってたね。


 懐かしいなあ日比谷公園車座飲み会。官僚やら大手町の企業やらいろんな若手が来ていたよ。当時のあの辺の若手の問題意識はかなり一致していたし、この30年でそれはだいぶ実現してきた。これからはその功罪を反省して、揺り戻しをしていくべきなんだろうなと思う。


 これいつか書きたいな>この30年の新自由主義的概念の功罪。


 いやTwitterでは「功罪の功なんてあるか、竹中を許すな」という意見ばっかりですが、私は功もあると思うんですよ。例えば昔は若手が部長の引っ越しを手伝わされるなんて日常茶飯事でしたよ。でもそれはもう消えたよね。


 この30年の新自由主義的概念の功と罪を書くなら、それが何を打倒しようとしていたかを書かないといけないだろう。一言でいうと「昭和的アジア的地縁血縁会社縁社会」「官僚主導型護送船団方式非自由義経済」といったあたり。


 これも誤解を生んでいるようなので追記すると「竹中」というのは比喩ですよ。「この30年の新自由主義改革の罪」の部分の象徴として、それを最も推進し、利益を得た(と一般に思われている)彼の名前を借りたのです。比喩でなく書くならば「功なんてあるか、罪しかないぞ」という感じですか。