〈おんな・こども〉の領分の伸長の「戦後」史・メモ

 〈おんな・こども〉の前景化、主体化というのが、制度のたてつけなどと共に、あるいはそれ以上に先廻りして人々の意識の側からなしくずしに行われていったのが「戦後」の生活環境におけるある本質的な変化だったとおも。

 概ね昭和20年代から30年代いっぱい、40年代始めにかけての過程でおこっていたこと、ではあるのだろう、と。

 「家庭」という空間の変貌。それは情報環境の変貌という角度から、一方では水回り中心からの日常生活のルーティンをまわしてゆく仕組みの変貌という角度から、〈おんな・こども〉の居住する場所という意味あいが「社会」との関係で変わっていった過程として。

 古典的な「生産/再生産」の枠組みの文脈での「消費」を加えたマクロ視点からの「家庭」「生活」とは少しズレたところからの、と言ってミクロ全振りでもない、〈それ以外〉の視点を下地にした視野/視界からの、そういう〈おんな・こども〉の領分の伸長&変質過程として。

 「娯楽」あるいは「レジャー」という道具だてが注目されていった過程を、そのような視点からもう一度別な光の当て方をしてみる必要。

 西条八十などの「詩集」がある時期から大量に売られ、おにゃのこたちの間に受け入れられていたことと、それらを「読む」リテラシーがどんなものであったのか、についての想像力の民俗誌/史。映像的なリテラシーが文字のリテラシーに複合してゆく過程と、そこに宿っていったであろう想像力について。

 明治後半の「星菫派」的な詩文の読まれ方、との連続/非連続なども視野の片隅に置きながら。

 いわゆる「新体詩」の読まれ方に関わる限りで、それは柳田國男がなぜそのようなリテラシーを自ら封印していったのか、などにも通じるはずの問いになる。

 それは彼にとっての「うた」のありかたが、彼が発見し、眼を啓いていったような「歴史」の水準にとって本質的に異質なものであり、少なくともそれら「歴史」の水準に接近しようとするなら障壁になり得るようなものだったから、という判断に立った上での選択だったかもしれない、という仮説。

 自然主義であれ何であれ、いわゆる近代文学史的なたてつけでの転変に、おそらくはかなりの程度意識的かつ方法的に距離を置き、「おりる」を自ら仕掛けていったことの意味。