「善き人」との邂逅

 「大文字で肩肘張ってる点では旧弊な左翼と同断」な場所に自分などよりずっと世に資するものを持つ「善き人」がよんどころなく赴くのを座視できなかったこと、ですかね。敢えて言挙げするならば、ささやかな「公」意識となけなしの「義」の認識とでも。

 「善き人」と邂逅する、できる可能性、おそらく最も低い場所にこのままずっと生きてゆくことには正直、耐えられないな、と思った。

 自分が何ほどの者かは知らんしわからんかったけれども、でもそのような「善き人」と行き会うことでいくらかでも自分もまた、そのような方向へ向いてゆける、「おかげ」を蒙ることができるんじゃないか、くらいのことは何となく思ってはいた。

 「アカデミア」とかそういうもの言いで、自分のいる場所、あるいはいたいと思っている場所をまるで無謬で理想の楽園のように思う心性が多数派になっているらしい世間など、かつて以上に瘴気満ちた禍々しい場所になっているのだろう、そのことだけはわかる。

 たとえば、「群を抜く力」を持ってしまっていること、そのことを自覚させられた者たちの煉獄であること(つまりある種のネルフ)が、もはやここまで大衆文芸の話法・文法で昇華させられてしまう本邦21世紀前半の大衆社会のありようについて、とか。