フリッパーズギターの転変・メモ

90年代のフリッパーズ~小山田/小沢各自のソロ活動においては、音楽作品だけでなく、各メディアでの発言=「言葉」による表現も多々行われた。当時の小山田の態度というのは古い言葉でいうスキゾ・キッズ的なもので、あの酷い発言・表現はその自己演出プロセスのなかで生まれた部分もあったように思う


ゼロ年代に入ると、元フリッパーズのふたりは公における言葉数が共に少なくなる。そして小沢健二は2010年代において再び饒舌に語り出したが、小山田は音楽作品の制作・発表により特化するようになる。制作される作品にはキャリア初期の躁的な感覚がほとんど無くなり、楽曲においても歌詞が減っていった


小山田圭吾の作品や表現には一貫して「主体」の構築から逃れようとする志向があると自分は思うし、ポップ音楽としてのその実作に成功したところがあると思う。しかし現実を生きるひとりの作家としての彼は今回、無責任で単に「主体」性の無い、おざなりな態度に着地することになってしまったと感じる…


ただ、それでも彼が公的に「主体」を引き受ける構図が生まれたことは、やはりこれまでとは違う状況であると思う。

 

https://twitter.com/saraniwasima/status/1417256220742717440

小山田圭吾の音のセンスが嫌いかっていうと私は嫌いではない。「STAR FRUITS SURF RIDER」とか、面白い試みだなとも思ったし、「デザインあ」の曲だって好きだ。90年代のサブカル界隈の雰囲気も察する所があって、たぶんあのインタビューを受けた当時は本人も「メジャーにはなりきれないサブカル路線」でウケると思ってたんだろう。でもフリッパーズ世代が年齢上がってくるとともに、あの頃の曲は「サブカルチャー」ではなく市井で普通に消費される「ポップカルチャー」になり、彼自身も中央に押し出されていったんだと思う。反省はしたくなかったんだろうとも思う。


でも時代が変わって、「悪行がなんとなく紛れる」ってことがなくなった。それでなくともいじめで買った恨みは深い。昔の悪行が今を押しつぶすのは、時に良く感じられるだろうけど時に自分も押しつぶされる日がくるのではと感じる。別に特に悪いことしてなくても、ツイッターで過去の発言掘り返して「違うことを言っているじゃないか」とか「今言うほど倫理的な態度ではない」と責める人がいるくらいだから。有名人でもなんでもなくても、そうやって過去との整合性を求められることがある。

彼のやったことは障害児の親としてかなり複雑な気持ちにさせるものがあるけれど、こんなに世界中にさらし首にしなきゃ反省の弁が引き出せなかったものなのかとは考えてしまう。なんでこんなに相手を殺すほどに叩かないと止められないのだろうと。

これまで丁寧に膿を育て上げてきていた人らが「五輪でこの国の膿が抉り出されていく」みたいなことをしたり顔で言ってる胸糞の悪さが延々と積み重なっていく。


何が胸糞悪いって、小山田さんがどちらかというと坂本教授とかサブカルとか、あの辺の界隈に近い音楽人で、かつ、いじめの話がファンや業界人には有名なエピソードだったことなんだよな。五輪というケガレに触れた途端に仲間外れにされてる感じが「なんだこいつら」となる。


僕は全くもって世代じゃないから、あのインタビューのことを今回の騒動で知ったよ。ドン引きだよ。でも、このドン引きエピソード持ちをこれまで知ってて持ち上げてた人らが「おい、あいつ五輪に触ったぞ!」と梯子外しとか、それこそいじめじゃねえか。